歴史ノート:ロシア領土拡大、最強の女帝

エカチェリーナ2世

エカチェリーナ2世は、ドイツ貴族の娘として生まれたロシアの女帝です。プロイセンのシュテッティン(現在のポーランド領シュチェチン)

7代目ロシア皇帝の后でしたが、気弱で能力不足の夫に満足せず、クーデターを起こし自ら帝位についた女傑。歴代のロシア皇帝の中で最長在位(1762〜1796)を誇ります。

またポーランドを分割し、その一部やウクライナクリミア半島などを取り込み、ロシアが熱望する暖かい南方へ進出。最も領土を拡大するという功績を残しました。

戴冠式でのエカチェリーナ2世(エリクセン画)

「王冠をかぶった娼婦」「夫殺しの王位簒奪者」と呼ばれたエカテリーナ2世。愛人が21人とも300人ともいわれるが、同時に「エカテリーナ大帝」や「ザ・グレート」とも称される偉大な名君でもあった。

 

【それまでのロシアの歴史】

9世紀末、ロシアの原型となるキエフ公国が建国された。キエフ大公ウラディミナル1世は、ビザンツ皇帝の妹と結婚してギリシア正教会を国教と定め、以後ビザンツ文化が入ってくる。

13世紀、ロシアはモンゴル帝国の一部になるが、1480年にモスクワ大公国が独立。独立を果たしたイヴァン3世(イヴァン雷帝/イヴァン4世の祖父)は、ほかの諸公国を併合しロシアを統一、また、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪を后に迎え、ローマ帝国の継承者とギリシア正教会の保護者を名乗るようになる。以後、ロシアはスラヴ人社会の強国へと変貌を遂げる。 

宗教戦争が起きなかった国ロシア

17世紀初め〜20世紀にかけてロシアを統治したロマノフ朝は、ロシア正教会の影響が強く、他国が経験したような宗教戦争によって国が二分される事態にはなりませんでした。そのため、皇帝(ロシア語でツァーリ)が政治的にも宗教的にも強力に支配する専制政治ツァーリズム)を行えたのです。

その中で最も有名な皇帝がピョートル大帝(ピョートル1世)です。「他国に勝つためには西洋化と近代化が必要」と唱え、大使節を派遣してオランダやイギリスなど、当時の先進国をめぐらせ技術を吸収させました。さらに本人も偽名を使って使節団の中に紛れ込み、技術を習得しようとしました。こうした飽くなき近代化推進の結果、強大になったロシア軍は北方戦争によってスウェーデン軍を破り、ヨーロッパの新興勢力としてロシアの名を人々に印象付けます。ピョートル1世はスウェーデンから奪ったバルト海沿岸の領土に新たな都市、ペテルブルクを建設し、本拠地をぐっとヨーロッパに近づけました。

 

エカチェリーナがロシアの女帝になるまで

夫のピョートル3世は多くの人から「気弱」と見られていて、貴族や正教会、軍隊ともいい関係ではありませんでした。一方、エカチェリーナ2世は、結婚後ロシア正教会に改宗し、自分の何もかもをロシア風に改め、国民からも貴族からも絶大な支持を集めます。

当時の権力者たちは、ピョートル3世を追放し、代わりに息子パヴェル(7歳)を皇帝の地位に就かせて、母親のエカチェリーナ2世を摂政(相談役)に任命するという計画を考えます。しかしこの計画を知ったエカチェリーナ2世は、当時の愛人で近衛兵の将校グレゴリー・オルロフ(オルロフ兄弟)と軍隊の助けを借りてクーデターを起こすのです。(自ら軍服を着て馬に乗り、軍を指揮した)

彼女は、夫であるピョートル3世を逮捕させ、皇帝の地位から追放。

こうしてエカチェリーナ2世は皇帝の座につきました。

(ピョートル3世はのちに、近衛部隊の監視役によって殺害される。エカチェリーナの関与が疑われていますが審議はいかに… )

 

オスマン帝国との2度にわたる露土戦争

①1768年 第1次ロシア=トルコ戦争(通算6度目の露土戦争

⭕️ロシア軍、クリミア半島、バルカンに陸軍を進め、黒海では海軍がオスマン海軍を破る

1774年 キュチュク・カイナルジ条約

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しかし、クリム=ハン国のクリミア=タタール人は依然としてオスマン帝国のスルタンをカリフとして認め、それに従う姿勢を崩さなかった。そこでロシアは、1783年に強制的にクリム=ハン国を併合し、ロシア化をはかった。そのため多くのクリミア=タタール人がオスマン帝国領に移り、救援を求めた。

オスマン帝国はロシアにクリミア半島黒海北岸の軍隊の撤退を要求、ロシアが拒否したためふたたび開戦…

 

1787年 第2次ロシア=トルコ戦争(通算7度目の露土戦争

🇹🇷オスマン帝国 + 🇬🇧英・🇸🇪瑞(スウェーデン)VS 🇷🇺ロシア + 🇦🇹墺

→ ⭕️ ロシア陸軍、オスマン帝国領内に深く侵攻。イスタンブールコンスタンティノープル)に迫る!イギリス、スウェーデンが手を引いてオスマン帝国が孤立したため講和に応じた。

1791年 ヤッシーの講和

 

この2度の露土戦争により、ロシアはバルカン半島進出の基礎を築きました。

1度目の講和条約キチュク・カイナルジ条約で、オスマン帝国は、帝国内に住む正教会信徒の保護権をロシアに与えたため、以後これがロシアによって内政干渉の口実として利用されます。また、この条約は、不凍港をめざして黒海、さらには地中海へと勢力を伸ばそうとするロシアの南下政策にともなう問題、いわゆる「東方問題」を生じさせました。

 

ポーランド分割

1772年、1793年、1795年(第1次、第2次、第3次ポーランド分割)

エカチェリーナ2世は3度に渡ってポーランド分割を主導しました。(ロシアは長い間ポーランドと対立を続けていた)

プロイセンオーストリアを誘ってポーランドに領土を強要し、ポーランドを3国で分割し取ってしまいます。そのため、ポーランドはしばらく地図上から消滅することになります。

また、ポーランドの王位継承問題に介入し、かつての愛人、ポーランドの有力貴族の啓蒙思想主義者スタニスワフ・ポニャトフスキをその土地の君主に任命しました。

ポーランド分割

ポーランド分割についての詳細

「ポーランド分割」- 共和国ポーランドが消滅するまで - 歴ログ -世界史専門ブログ-

 

南下を成功させ、さらにロシア帝国の領土をポーランドウクライナにまで拡大したエカチェリーナ2世は「大帝」と称されるようになります。

 

  

サンクトペテルブルク

エカテリーナ宮殿(冬の宮殿)

エカテリーナ宮殿エカテリーナ宮殿エカテリーナ宮殿エカテリーナ宮殿

 

ロシア正教会の美しい教会】

ロシアの古都サンクトペテルブルクには、ロシア正教の美しい教会がいくつも存在している。
特に、聖イサク大聖堂、カザン聖堂、血の上の救世主教会、トロイツキー大聖堂の四大教会は、旧市街の中心部にあり、「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」として世界遺産に指定されている 

ビザンツの文化】

ギリシア・ローマの文化を維持しながら、その中に東方のオリエンタルな情緒を組み込んだ独特の様式が特徴。

 

世界史対照略年表(1700〜1900)詳細版©世界の歴史まっぷ

世界史対照略年表(1700〜1900)詳細版©世界の歴史まっぷ

  

出典・参考資料

※この記事は、『世界の国旗』ミニサイト と、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。

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