歴史ノート:19世紀ロシア史・東方問題

不凍港を求めたロシアがこだわった南下政策

17世紀末に即位したピョートル1世の時代に、ロシアはヨーロッパの強国になりました。しかし、ロシアが海外進出するためには、冬でも凍らない港が必要不可欠でした。

ロシアは不凍港を求めて南下政策をとることに…

主な標的になったのは、18世紀を境に衰退しはじめたオスマン帝国

バルカン半島には、ギリシア正教徒がたくさん住んでいる。ロシアはギリシア正教会のリーダー。また、パン=スラブ主義などの理由から一番良い道だった)

→農作物販路の確保を目指し、黒海・地中海へ!

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ロシアの南下政策の歩み

ロシアは、広大な土地を利用して自国でも産業革命を迎えようとしたが、資金がなかった。広大な土地で作った作物を海外に売って、産業革命のための資本としたかった。でも秋に麦を収穫しても、港が凍っていて輸出できない。だから暖かい港がどうしても必要だった。

そして、ロシアの勢力拡大はイギリスをはじめとする列強の警戒心を引き起こした。ロシアの南下をめぐる一連の国際対立を東方問題と呼ぶ。

 

ギリシア独立戦争(1821〜29年)

ギリシアの思想・芸術を自分たちの文明の始祖と見なすヨーロッパは、ギリシアオスマン帝国からの独立を支援する。イギリス・フランス・ロシアは、どこかの国だけがこの地に影響を及ぼすことを嫌がった。だから、ウィーン体制下(独立とか駄目)でもギリシアの独立を応援した。

🇬🇷ギリシア + 🇬🇧英・🇫🇷仏・🇷🇺露  + ロマン派文化人(🇬🇧バイロン・🇫🇷ドラクロワ

   VS

🇹🇷オスマン帝国 + 🇪🇬エジプト ムハンマド=アリー

 英・仏・露の艦隊がオスマン帝国の艦隊を撃破

⭕️🇷🇺 ・ボスポラス・ダーダネルス両海峡の自由通航権を獲得

 

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🇪🇬エジプト総督ムハンマド=アリー、オスマン帝国シリアの領有を要求

オスマン帝国🇹🇷ムハンマド=アリーくん、君、ギリシア戦争で勝ってないのに…?)

オスマン帝国は断固拒否。エジプトvsオスマン帝国が争うことに…

②第1次エジプト=トルコ戦争(1821〜29年)

🇪🇬エジプト + 🇬🇧英・🇫🇷仏・🇦🇹墺

   VS 

🇹🇷オスマン帝国 + 🇷🇺ロシア ← ここにロシアが入ってくる(皇帝ニコライ1世)

ロシア、どさくさに紛れて、オスマン帝国に南下政策の交渉を仕掛ける。

→ エジプトはシリアの領有権を獲得

→ ⭕️🇷🇺 ・ロシア以外の外国軍艦が両海峡を通航することを禁止

 

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🇪🇬エジプト総督ムハンマド=アリー、エジプトとシリアの世襲を要求

オスマン帝国🇹🇷君を総督と認めたけど、君の家にあげるなんて言ってないよ!)

そしてまた戦争に…

③第2次エジプト=トルコ戦争(1839〜40年)

🇪🇬エジプト + 🇫🇷仏

   VS 

🇹🇷オスマン帝国 + 🇬🇧英(パーマストン)・🇦🇹墺(メッテルニヒ)・🇩🇪普・🇷🇺露 ← ここにロシアがまた介入

最終的にムハンマド=アリーは孤立し、イギリス軍に敗れる

↓↓↓アレクサンドリアにおいて第二次エジプト・トルコ戦争の降伏交渉を行うムハンマド・アリー

アレクサンドリアにおいて第二次エジプト・トルコ戦争の降伏交渉を行うムハンマド・アリー

1840年 ロンドン会議

→ エジプトはシリアを返還

→ エジプト・スータンの世襲権を承認される

さらに、ロシアの作戦は、他の国に見つかっていた(^▽^) 

イギリスをはじめとした他の国ウィーン体制下のヨーロッパで、抜け駆けするな」

✖️ → ボスポラス・ダーダネルス両海峡において、全ての外国軍艦が両海峡を通航することを禁止

 

2度は成功したのに…。うまくいかない、ロシアの南下政策

(一方、イギリスのパーマストン外交は大成功。インドへの道筋をしっかり確保する)  

 

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クリミア戦争(1853〜56年)その後のロシアを変えた戦争

🇹🇷オスマン帝国 フランスに聖地エルサレムの管理権を譲渡

(フランスのナポレオン3世が聖地エルサレムパレスチナ)の管理権を要求し認めさせた)

🇷🇺ロシア 聖地エルサレムの管理権を要求

※ロシアはギリシア正教会のリーダーなので、ギリシア正教との保護を口実にして戦争を仕掛けた

 

🇹🇷オスマン帝国 + 🇬🇧英・ 🇫🇷仏・🇮🇹サルデーニャ VS 🇷🇺ロシア

→セバスローポリの戦いで、オスマン帝国が勝利

戦争を主導したロシア皇帝ニコライ1世は衰弱死、失意の内に亡くなってしまう

1856年 パリ講和条約

→ ✖️🇷🇺 ・国会の中立化が決まり、ロシアの南下政策は失敗に終わった

 

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【ロシア国内では】

ロシアの皇帝 アレクサンドル2世は、クリミア戦争に敗北したことで、ロシアの後進性を痛感。敗戦の原因は、ロシアの産業改革が不十分なことにあると考えました。

すでに産業革命が進んでいたイギリスやフランスとの間には、軍艦や大砲などの軍備に歴然とした差があったのです。アレクサンドル2世は、近代化に向けて国内の改革に乗り出します。まずは農民を解放しましたが、農民たちにとっては不満の残る改革でした。

農奴解放令(1861)農奴に対して人格的自由を無償で与えるが、土地の分与は有償

農民たちは…

→・ミール(農村共同体)地主がまとめて土地を購入、みんなで月々分割で払う

→・ポーランド反乱(一月蜂起)改革を進める皇帝に刺激を受けて、独立を求める反乱が発生、しかしアレクサンドル2世は鎮圧する(ムラヴィヨフ)

アレクサンドル2世「あまり改革をしすぎると、他の民族たちが独立を求めてしまうかもしれない…」

 

皇帝は、徐々にまた皇帝独裁政治を強めていくようになります。

 

ナロードニキ(人民主義者)の活動

独自の平等社会の実現を目指す(インテリゲンツィア中心)

「ヴ=ナロード」(人民の中へ)を掲げて農村部に進出

→しかし、知的すぎて農民にとっては意味がわからなかった(農民の協力得られず)

ナロードニキは、徐々に過激な思想に走り、アレクサンドル2世を暗殺…

テロリズムが横行し、国内の治安は悪くなった

 

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それでも徴兵制を実施して産業化を押し進めたロシアは、黒海・地中海ルートが駄目なら、バルカン半島をロシア領土にしようと考えました。

 バルカン半島へ方向を転換。執拗に南下を試みるロシア

⑤ロシア=トルコ戦争(1877〜78年)露土戦争

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの反乱オスマン帝国領土内)が起きる。

この反乱は、オスマン帝国によって鎮圧されるが、この地域はスラブ人がたくさん住んでいた。

ロシアがパン=スラブ主義を掲げて宣戦。

→⭕️🇷🇺・ロシアの勝利

1878年 サン=ステファノ条約

ロシアは、バルカン半島内での影響力を見事に強めた。

地中海に出られるルートを確立しそうになるものの…

 

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「まずい、このままではロシアが南下政策を完成させて、ヨーロッパの強国になってしまう…」🇬🇧🇦🇹などが猛反発。

条約をもういちど見直そう!

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1878年 ベルリン会議

ドイツ首相 ビスマルク「誠実な仲買人」として主催

ベルリン会議の様子

ベルリン条約

オーストリアボスニア・ヘルツェゴヴィナから、ルーマニアセルビアモンテネグロを監視し、イギリスがキプロス島から監視するという体制に…。ロシアの黒海・地中海・バルカン半島の南下政策ルート開拓は完全に失敗に終わりました。 

このあとロシアは、東アジア方面に向けて南下政策を推し進めることになります。

 

【このあと】

ロシアは東アジア方面への南下を進めるべく、シベリア鉄道を起工します。しかし、東アジア方面の不凍港を得ることは、日本と満州朝鮮半島の主導権を取り合うことを意味しました。

日露戦争1904〜05)は、こうしたロシアの方針転換によって引き起こされたものです。そして日露戦争に敗北したロシアは、再び地中海方面での南下を図り、第一次世界大戦の勃発に繋がっていきます。

 

ニコライ1世/アレクサンドル2世/ビスマルク

19世紀ロシアと東方問題年表 ©世界の歴史まっぷ

19世紀ロシアと東方問題年表 ©世界の歴史まっぷ

 

出典・参考資料

※この記事は、『世界の国旗』ミニサイト と、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。

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