歴史ノート:イタリアとドイツの統一
中世以降、ドイツの諸領邦を束ねた神聖ローマ帝国。
しかし、「ローマ帝国の後継者」を自認する皇帝は、イタリアへの遠征や干渉を繰り返し、ドイツ国内の統一はないがしろになっていました。
1648年 最大の宗教戦争である三十年戦争(主にドイツとチェコが主戦場)の結果、ウェストファリア会議でドイツ諸領邦の独立が認められた。神聖ローマ帝国は、事実上の解体へ。
・ドイツ諸領邦の独立(約300の諸侯がそれぞれ独立した領邦、主権国家に)
・フランス ドイツから、アルザス、ロレーヌ地方の大部分とその他の領土を獲得
⭕️・🇳🇱オランダ独立(1568~1648 八十年戦争)(神聖ローマ帝国から)
⭕️・🇨🇭スイス独立(神聖ローマ帝国から)
※フランスとスペイン間の戦争は継続され、1659年のピレネー条約まで、両者の講和は遅れた。ピレネー条約でフランスはアルトワを獲得。ルイ14世とスペイン王フェリペ2世の娘マリー=テレーズの婚姻と取り付けた(これは後で重要になる)またこの時イギリスは、ピューリタン革命の最中であったので、この条約には関わっていない。
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1806年 ナポレオンはドイツ諸領邦を屈服させ、ライン同盟を結成。
神聖ローマ帝国は消滅し、同時にナポレオン支配下で行われた自由主義改革はドイツ人の民族意識を呼び覚ました。→ロシア遠征に失敗してナポレオンが急速に力を失った1813年にライン同盟も消滅した。
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1814〜48年 ウィーン体制
統一が遅れたドイツとイタリア
フランスやイギリスが革命や改革を重ね、強国になっていく一方、ドイツやイタリアは国内の分裂状態が続き、なかなかひとつにまとまることができませんでした。
・経済面
国内の小国家同士が関税をかけ合って、小さな競争をしていた。海外に植民地を作って売りつけていたフランスやイギリスにはどうしても勝てない。
・軍事面
小国家ごとの軍事規模が小さいため、対外戦争で実力を発揮できない。
小国家の垣根を壊したくて、何度も一体化を試みるドイツとイタリア。
でも、その道のりは平坦ではなかった。
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イタリアの統一
イタリアではサルディーニャ王国が中心となり、統一活動がなされた。
1859年 イタリア統一戦争
サルディーニャ王のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世とその首相カヴールがフランスの支援を取りつけ、北部と中部のイタリアを統一。
英雄として名高いガリバルディが義勇軍「赤シャツ千人隊」を率いてイタリア南部のシチリア島やナポリを占領。統一を求める人々の支援も得て、たちまち南イタリアを統一。
2つの統一勢力が衝突するかと思われたが…
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(自身は身を引くことを宣言した。人々は感嘆と賞賛を送った。)
1861年 🇮🇹イタリア統一
サルディーニャ王国(サヴォイア王家)当主:ヴィットーリオ・エマヌエール2世 宰相:カヴール 首都:トリノ
こうしてイタリアは統一された。でも、引き続きオーストリアが北部の一部にイタリア人居住地域(トリエステなど)を支配していたため、この地が後々「未回収のイタリア」としてイタリアとオーストリア間で対立が起きる原因になることに…。
ドイツの統一
そもそも、 ドイツは、神聖ローマ帝国時代から「領邦」と呼ばれる多くの諸侯が寄せ集まった地域。ナポレオンによって神聖ローマ帝国は消滅したけど、小国家の分裂状況は変わらず。さらに、プロイセンとオーストリアの二大国家の間で続いていた「意地の張り合い」が、ドイツの統一を阻害していた。
1834年 ドイツ関税同盟
・プロイセン 関税同盟の結成を提案(経済的な一体化を進めよう!)
・オーストリア 関税同盟に加わらず。(プロイセンがドイツで主導権を握ろうとしている!)
1848年 フランクフルト国民議会
大ドイツ主義(オーストリア中心)VS小ドイツ主義(プロイセン中心&オーストリア除外)勝ったものの… → プロイセンが拒否して、失敗に終わった
全然うまくいかない統一…!
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1862年 宰相ビスマルク就任 によってついに状況が変わる!
「1848年の大きな誤りは言論と多数決で事を決しようとしたことである。現今の大問題は、ただ鉄(軍事拡張)と血(戦争)によって解決される」(鉄血演説)
ビスマルクは富国強制兵政策を進め、「ドイツ統一に対してつべこべいうオーストリアを外してしまえ!」
⭕️・プロイセン勝利!
→✖️・オーストリアはドイツから除外される
1867年
しかし、統一は完成しなかった。(南ドイツを中心に、ドイツの中でもプロイセンに従わない小国家たちがまだ存在した。
1870年 普仏戦争(綿密に準備していたプロイセンが勝利。ドイツ統一にも成功!)
ビスマルクはフランス皇帝ナポレオン3世を挑発。罠にかかったフランスがドイツに宣戦すると、フランスを「ドイツ人共通の国」にして、南ドイツの国々に一致団結を訴える。こうして、南ドイツの国々を戦争に巻き込んでいくことでプロイセンの支配下に置いた。
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プロイセン王国(ホーエンツォレルン)当主:ヴェルヘルム1世 宰相:ビスマルク 首都:ベルリン
王家主導の、上からの統一だった。【BIG3は】ヴェルヘルム1世、ビスマルク、マルトケ
ナポレオン3世は退位。
【その頃日本は…】
1854年に開国した日本は、1867年10月、大政奉還によって明治維新を迎えた。廃藩置県によって封建社会から近代国家へと生まれ変わり、1889年には第日本帝国憲法が発布。(伊東博文らによって起草された、プロイセンに倣った君主権の強い憲法であり、天皇を統治権の総攬者として広範な権利を認めていた)
つまり
=日独伊は、ほぼ同じ頃にできた国である
《村山秀太郎先生のおもしろい話》
ドイツの概念はどこからはじまったの?
ドイツ人であるアイデンティティーは、ドイツ語からくる。
ここまでの歴史上、ドイツ語が平準化する上で、不可欠な人物は
- ルター ドイツ語聖書
- ナポレオン の侵入を前に
- フィフィテ「ドイツ国民に告ぐ」連続講演
最後それが、ビスマルクによってまとめられる
「世界史とは、絶対精神が実現するプロセスである」
「人間の生とは、承認を巡る闘争、また優越願望である」
「ドイツ民族というものが、フランス(ナポレオン)を前にして、承認を巡る闘争をする時期を迎えたのだ」
出典・参考資料
- 学習Web | スタディサプリ|高3トップ&ハイレベル世界史 第37講|アイルランド史・イタリアとドイツ統一
- 一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた
- 「地図」と「並列年表」でよくわかる 【超図解】日本史&世界史
- 明解世界史図説 エスカリエ 十一訂版
※この記事は、『世界の国旗』ミニサイト と、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。