歴史ノート:オスマン帝国とエジプト総督

オスマン帝国

(14~20世紀初頭まで)現在のトルコ共和国アナトリア地方(小アジア半島)に建国されたイスラム教の大帝国。アナトリアからバルカン半島、地中海にも進出し、領土を拡大。15世紀半ばにはビザンツ帝国東ローマ帝国)を滅亡させ、第10代皇帝スレイマン1世が治める16世紀に最盛期を迎える。帝国の躍進は「オスマンの衝撃」と呼ばれ、西欧キリスト教世界に大きな脅威を与えた。

総督府で執務中のムハンマド・アリー

総督府で執務中のムハンマド・アリー

17世紀末以降はヨーロッパ列強の圧力に屈し、衰退していった。19世紀にはヨーロッパ列強の干渉と領内の民族運動に苦しめられた。第一次世界大戦で敗戦国となり、1922年にスルタン制が廃止されて滅亡。

最盛期のオスマン=トルコ帝国の領土

最盛期のオスマン=トルコ帝国の領土

オスマン帝国は高度な文化を持ち、優れた人間なら人種を問わず官吏に採用する柔軟性を持っていました。

エジプトの自立を目指したムハンマド・アリー

エジプト支配がはじまったのは1517年、9代目のスルタン、セリム1世の時代です。

18世紀の終わり頃からは、アルバニア人のエジプト大使ムハンマド・アリーがエジプトを支配していました。1798年のナポレオンのエジプト遠征の際、オスマン帝国からオスマン軍部隊の一員として派遣され、遠征後の混乱のなか、エジプトの実験を握った)

当時、オスマン帝国はメッカ、メディナエルサレムの、イスラムの三聖地を支配し、カリフを名乗っていました。(昔、マムルーク朝アッバース朝のカリフの家族をかくまったことによって特別にカリフ権を持っていた。)それに対してワッハーブ王朝が反旗をひるがえし、オスマン=ワッハーブ戦争が起こり、ムハンマド・アリーがこの戦争に勝利します。また、ムハンマド・アリーギリシャ独立運動でも骨を折り、オスマン帝国に多大に貢献しました。

しかし、力を尽くしてもクレタ島キプロス島しかもらえなかった待遇に不満を持ったムハンマド・アリーは、シリアの領有権を要求し、第一次エジプト=トルコ戦争が勃発します。

スルタン=カリフ制
オスマン帝国のスルタンは、世俗権力者としてのスルタンであるとともに、宗教的権威者としてのカリフでもある。

 

ムハンマド・アリー

オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805〜1849)。メフメト・アリー(トルコ語: Mehmet Ali)ともいう。 

エジプト・シリア戦役でオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推しすすめ、アラビア半島スーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪います。

最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスが介入し富国強兵策は頓挫しましたが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成。その後のエジプト発展の基礎を築きました。

有名なエジプト綿(綿花)は、昔からエジプトにあったのではなく、ムハンマド・アリーが導入したもののひとつ。そのほかにも、灌漑設備(かんがいせつび)を整備したり、産業を起こしました。西洋式の新軍や海軍を整備し、近代的な向上を建設するなど富国強兵を進め、オスマン帝国からの自立を目指しました。

歴史学者のフィリップ・ヒッティ

「19世紀前半のエジプトの歴史は、事実上、このひとりの男の物語である。」

シタデルの惨劇

シタデルの惨劇

1811年、オスマン帝国ムハンマド・アリーに対し、第一次サウード王国を攻撃するよう要請(メッカを支配下に置くなどアラビア半島のほぼ全域を支配下に置きシリアやイラクにも勢力を拡大しつつあった)ムハンマド・アリーはこの要請を、いまだ完全に服従したとはいえないマムルークの反乱を煽って自分を総督の座から追い落とそうとする計略であると察知し、苛烈な手法を用いてマムルークを粛清することを決意。

次男アフマド・トゥーソンの、アラビア遠征の軍司令官任命式を執り行うという名目で、有力なマムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害します(シタデルの惨劇)。

そしてカイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、1812年までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除することに成功します。マムルーク粛清に成功したことにより、ムハンマド・アリーのエジプトにおける支配権は確固たるものになりました。実質的な独立王朝ムハンマド・アリー朝の成立と言われています。後年、ムハンマド・アリーマムルーク粛清について問われると、次のように答えたのだとか。

私は、あの時期を好まない。あのような状況に私はいやおうなく追い込まれてしまったのであり、いつ果てるとも知らぬ戦いと悲惨、策略と流血について、今さら語ったところで何になろう。私個人の歴史は、私があらゆる束縛から解放され、この国を長い眠りからめざめさせることができた時、初めて開始された。

 前半生は大いに伝説的で、ムハンマド・アリーがこの時期の自分自身について言及することはなかった。「比類ない出世を遂げた偉大な君主の、後身に釣り合わない青年時代の身分の卑しさを修飾する捏造」が疑われる言い伝えも。「私はアレクサンダーの故郷で、ナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだそうです。

※マルムークとは

マムルークは、10〜19世紀初頭にかけてトルコとアラビア半島イスラム世界に存在した、奴隷身分出身の軍人のこと。シャリーアによって法的に権利を制限されていたが、信仰の自由を与えられるなど、人間としての一定の権利を認められる存在だった。また、奴隷を解放することは最後の審判のあと天国に迎えられるために望ましい善行とみなされていたので非常に積極的に行われ、奴隷は解放によって社会身分上は自由人にまったく劣らない資格を獲得することができた。

 

ムハンマド・アリーは、近代エジプトの父エル・キビール(大王)と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けています。

ムハンマド=アリー/イブラーヒーム・パシャ/マフスト2世

ムハンマド・アリー・モスク

ムハンマド・アリー・モスク(カイロ)

エジプトのシタデルにあるムハンマド・アリー・モスク。トルコのイスタンブールにある、通称"ブルーモスク"と言われているスルタンアフメットモスク or アヤソフィア(ハギア=ソフィア大聖堂)を真似て建設された[複数記述あり・要考証]。いくつもの巨大なドームと鉛筆形の2本の高いミナレットをもつのは、トルコのガーマ(モスク)の特徴。エジプトのほかのモスクにはほとんど見られない。

 

出典・参考資料

※この記事は、『世界の国旗』ミニサイト と、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。

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