歴史ノート:ウィーン体制

ウィーン会議とは

1814年4月に、第1次パリ平和条約が結ばれた。ウィーン会議は、フランス革命とその後のナポレオン戦争によって荒廃したヨーロッパの秩序を再建するために、1814年9月から1815年6月にかけて開かれた会議。

 

ウィーン会議の様子 Jean-Baptiste Isabey画

会議は踊る、されど進まず。

フランス革命後、王政はすぐになくなったわけではありませんでした。市民が完全に王政支配から逃れるまでに、王政への逆戻りや、諸国でのたくさんの革命があったのです。

自由主義改革を進めていたナポレオンがいなくなった後、ヨーロッパ諸国の指導者たちは、フランス革命以前の秩序に戻そうとして、ウィーン体制が作られます。

せっかくフランス革命があったのに、今さら「王様の世界に戻す」といわれても、市民はまっぴらごめんです。ウィーン体制に反発した市民たちが、ヨーロッパ各地で次々と革命を起こします。革命は他の大陸にも影響を与え、ラテンアメリカ諸国の多くの国が独立を果たすことに。それでもなかなか崩壊しないウィーン体制でしたが、パリ二月革命(&マルクス登場)で一気に崩壊へ向かいます。

 

【それまでのヨーロッパ】ナポレオンがヨーロッパ中を支配 → ロシア遠征に失敗、急速に力を失う

1806年 ナポレオンがドイツ諸領邦を屈服させ、ライン同盟を結成させる。

神聖ローマ帝国は消滅し、同時にナポレオン支配下で行われた自由主義改革はドイツ人の民族意識を呼び覚ました。 → 市民の、独立や自由への動きにつながる

アウステルリッツの戦い三帝会戦)でオーストリア・ロシア連合軍を破り、第3回対仏大同盟を崩壊させてヨーロッパ大陸を実質的に支配することとなったナポレオンは、ドイツ諸邦を支配下に組み入れるためにライン同盟を結成した。その結果、多くのドイツ諸邦が神聖ローマ帝国を離脱したため、神聖ローマ皇帝フランツ2世は帝位を退き、名実ともに神聖ローマ帝国は消滅した。

最初のライン同盟参加国はバイエルンヴュルテンベルクレーゲンスブルク、バーデンなど16ヵ国。1807年のティルジット条約成立後、中部・北部の諸邦も加盟した。

ロシア遠征に失敗してナポレオンが急速に力を失った1813年にライン同盟も消滅した。

 

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フランス革命をなかったことにしよう、ナポレオンがいなかったことにしよう!

1814〜15年 ウィーン会議

ナポレオンの失脚後のヨーロッパ秩序の回復を目的とし、絶対王政時代へ復帰しようとする体制の成立(ウィーン体制=19世紀前半のヨーロッパの国際秩序をあらわす)。「会議は踊る。されど進まず…」

フランス革命前のヨーロッパへ戻していこうとして、各国の領土変更と国家体制の変更が行われる。各地の自由主義国民主義を弾圧。オーストリア外相のメッテルニヒが主催。オスマン帝国を除く全ヨーロッパの君主や政治家らが参加した。→大国の勢力均衡を協議。フランス外相のタレーランが理念を決めた。正統主義の提唱。(フランス革命をなかったことにしよう、ナポレオンがいなかったことにしよう)ナポレオンを破ったイギリス🇬🇧とロシア🇷🇺には多くの「ごほうび」が与えられた。

ウィーン体制を支える2本の柱 市民が反抗したときの策

神聖同盟(僕たち同じキリスト教徒だよね。仲良くしましょう)

ロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱。全ヨーロッパの君主が参加。(イギリス[不利益だと考えた]・オスマン帝国イスラム]・ローマ教皇プロテスタントを嫌がった]を除く)

四国同盟(実際に人々を暴動を起こした時に潰しに来る同盟)

イギリス・ロシア・オーストリアプロイセン。途中でフランスが加盟し、五国同盟となる。

 

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ウィーン体制への反発

▪️自由主義革命

自由主義の動きが、ヨーロッパで4つ登場(ドイツを自由にして!イタリアを自由にして!など)

✖️・ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)→オストリア軍により鎮圧

✖️・カルボナリ(炭焼党)イタリア オストリア軍の干渉により鎮圧

✖️・スペイン立憲革命 →フランス軍の干渉により鎮圧

✖️・デカブリストの乱(1825)ロシア →神聖ニコライ1世により鎮圧

 

▪️ナショナリズム(僕たちは、君たちと違うのだから独立させてくれ)

⭕️・🇬🇷ギリシア独立戦争1821〜29)オスマン帝国領土だった 唯一うまくいった独立

✖️・ロンドン会議(1830)ギリシアの独立を国際的に承認

 

▪️ラテンアメリカの独立(反抗の動きがラテンアメリカに飛び火)

トゥサン=ルヴェルチュール 黒人指導者の独立闘争(ナポレオン軍に捕まり獄死)

⭕️・🇭🇹ハイチ独立(1804)

 

白人の地主たちも活躍!たくさんの国々を独立に導いた

シモン=ボリバルラテンアメリカで生まれた白人地主=クリオーリョ)の活躍

「今、ナポレオンがヨーロッパで暴れて、ヨーロッパの国々が混乱している。独立するなら今がチャンスだ」※ナポレオンがスペインを支配したことで、スペインの支配が弱まった。

⭕️・🇻🇪ベネズエラ独立

⭕️・🇨🇴コロンビア独立

⭕️・🇪🇨エクアドル独立

⭕️・🇧🇴ボリビア独立

サン=マルティンクリオーリョ)の活躍

⭕️・🇦🇷アルゼンチン独立

⭕️・🇨🇱チリ独立

⭕️・🇵🇪ペルー独立

その他の独立

⭕️・🇲🇽メキシコ独立(イダルゴ神父の独立宣言)

⭕️・🇧🇷ブラジル独立(ポルトガル王子が皇帝即位)

ラテンアメリカの国々が、驚くほど独立を勝ち取っていく…!

 

列強指導者の対応

✖︎ 失敗[澳]🇦🇹 メッテルニヒ独立運動の弾圧を企図 →断念

◎[英]🇬🇧 カニング → ラテンアメリカをイギリスの製品市場にしようと画策(独立賛成)

◎[米]🇺🇸 モンロー → 米・欧両大陸の相互不干渉を提唱…モンロー宣言アメリカ大陸で起きていることに、ヨーロッパは干渉するな)

  

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ウィーン体制の動揺 スポットライトはフランスに戻る

▪️ブルボン復古王政

ナポレオンがいなくなり、ブルボン王朝が復活。

ルイ18世(1814〜24)→ 弟の シャルル10世(1824〜30)反動政治を強化!絶対王政時代に戻そう!

アルジェリア出兵(1830〜1962まで支配する)を行い、人々の注目を政治から外に向け、その間に政策を進めようとしたが、思惑がバレて、革命が起きた。

1830年 フランス七月革命

⭕️・学生、小市民、労働者らが蜂起。シャルル10世は亡命。

ルイ=フィリップ(オルレアン家)の即位 俺は威張り散らす王ではない。みんなのための王なんだ

 

七月革命の影響(フランスで革命が起きた。よし、俺たちも革命を起こそう!)

⭕️・🇧🇪ベルギー独立 オランダから独立

✖️・ポーランド蜂起 ロシア支配からの離脱を求め蜂起

✖️・ドイツ反乱 各地で憲法が制定

✖️・イタリアの反乱 オーストリア軍により鎮圧

→ カルボナリは解散 → 主要メンバー「青年イタリア」(マッツィーニがリーダー)結成

 

このように、人々がウィーン体制に不満を持っているのが明るみに出た。

 

ウィーン体制の崩壊

七月革命が起きたあとの体制 = 七月王政

新しく王になった、ルイ=フィリップ(位1830〜40)が行ったのは極端な制限選挙

お金持ちしか相手にしないような政治だった。

 

産業革命の進展

→ 抽象産業資本家や労働者の登場

男性普通選挙を求めて、選挙法改正運動を展開。また革命が起きる。

 

1848年 パリ二月革命

パリの労働者・学生・資本家による暴動。思想家マルクスが大きな影響を与えた

「万国のプロレタリア(労働者)よ団結せよ!」

 

二月革命の影響二月革命は、めっちゃくちゃ影響を与えた!!19世紀世界史の中で最も重要な年号)

オーストリア ウィーン三月革命 メッテルニヒ失脚 → ウィーン体制崩壊

プロイセン ベルリン三月革命 国王に憲法制定を約束

諸国民の春オーストリアハプスブルク家は複合多民族国家だったので各民族が独立を求めた)

ハンガリー民族運動(マジャール人)コシュートの独立宣言 → 鎮圧

ベーメン民族運動(ボヘミア・チェック人)プラハを中心に蜂起

1848年 フランクフルト国民議会

✖️・ドイツ統一憲法制定を協議

大ドイツ主義(オーストリア中心)VS小ドイツ主義(プロイセン中心&オーストリア除外)勝ったものの… プロイセンが拒否して、失敗に終わった

イタリア民族運動

✖️・サルディーニャ王国の統一運動

✖️・ローマ共和国の建国(青年イタリアのマッツィーニ)

イギリス

✖️・チャーティスト運動 労働者達が政治参加を訴える。議会請願、デモ運動、ストライキの実施

 

これらの、二月革命の影響・現状の体制に反発する動きは、このときは成功しませんでした。でも、こんなに多くの地域で反発運動が起こったこと。このような流れになった事自体が重要です。このあと、19世紀後半のヨーロッパ各国は、自分の国に合った形で、それぞれ改革を行なっていくことになります。

 

まとめ:ウィーン体制(1815〜48)

ウィーン会議に始まり、Mr.ウィーン会議 メッテルニヒの亡命で終わる

オーストリアハプスブルク家は、複合多民族国家だった → ナポレオンによって、それぞれの民族意識が高まっていた → ウィーン体制 → 反抗 →→(諸国民の春)

(諸国民がある程度自由に動けるようになった。しかし、チェコなど、本格的な独立は第二次大戦後となる)

 

 

出典・参考資料

※この記事は、『世界の国旗』ミニサイト と、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。

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