歴史ノート:十字軍が中世ヨーロッパに与えた影響

十字軍が中世ヨーロッパにもたらしたもの

十字軍の派遣は失敗に終わりましたが、代わりに商業の発展がヨーロッパ世界にもたらされました。 十字軍以前のヨーロッパ世界は、度重なる民族移動による混乱期で、それぞれ自国を守るのに必死でしたが、十字軍の派遣の頃には混乱はかなり落ち着いていました。十字軍は、ヨーロッパの国々が遠い西アジアやエジプトに軍隊を派遣できるほど安定したという証拠になりました。

①商業の発展

十字軍の通り道になった場所では道路が整備され、付近の都市で軍需物質が盛んに取引されるようになった。十字軍の通り道として最も恩恵を受けたのが、北イタリアをはじめとする商業圏。

🇮🇹

【港町 ヴェネツィアジェノバ】アジアの香辛料や絹などを交易して飛躍的に発展

【内陸 ミラノやフィレンツェ】手工業や金融で栄えた

 ロンバルディア同盟という都市同盟が北イタリアで結成された。

🇩🇪

【北ドイツ リューベックハンブルクブレーメンハンザ同盟 木材や穀物などの生活必需品

フランドル地方 ブリュージュ】毛織物の一大産地。ハンザ同盟イングランドなどと取引をして栄えた

また、南北の中継地点となった中部フランスや南ドイツの都市も、大いに発達した。

 

カトリックの権威の低下

十字軍前に絶大だったカトリック教会やローマ教皇の地位は落ちていきました。

「神が味方についているから絶対に勝てる!」と意気揚々と送り出した十字軍が敗北を続けたため、十字軍を提唱したローマ教皇の説得力がなくなってしまったのです。

 

アナーニ事件

十字軍後に登場したフランス王🇫🇷フィリップ4世「端麗王」(ルイ9世の孫)が国内の聖職者への課税を行うと、教皇ボニファティウス8世は「キリスト教会に課税するとはなにごとか!」と(いつもの)破門戦術で、フィリップ4世を破門に処しました。

→ ところが、フィリップ4世は謝罪せず、逆に家臣を派遣してボニファティウス8世を襲撃!フランスに連行して監禁します。。

f:id:egawachikage:20190623081139j:plain

アルフォンス·マリー·アドルフ=ドヌー「教皇ボニファティウス8世の捕縛」

教皇ボニファティウス8世は、かろうじてローマに脱出するものの、あまりの屈辱でその後「憤死」したと伝えられている。十字軍前の「カノッサの屈辱」では、国王が教皇に謝罪したが、十字軍後は、国王が教皇を屈服させるという逆転現象が起きた。

  ↓ ↓ ↓

1309年 教皇のバビロン捕囚

さらに🇫🇷「端麗王」フィリップ4世は、ローマ教皇にゆさぶりをかけます。フランス人がローマ教皇に選ばれたのを機に、教皇庁をフランスのアヴィニヨンに移し、カトリック教会そのものを自分の監督下に置こうとしました。

以後70年にわたり、ローマ教皇フランスに居住することになり、教皇を奪われた形になってしまったイタリア人(特に🇮🇹ローマ市民)は大いに憤ります。このあと、のちにローマ側も教皇を独自に立て、フランスの教皇とローマの教皇が並び立ち、正当性をめぐって争うことになります。

フランスがのちの百年戦争で弱体化し、教皇庁を手放すまで続いた、この教皇のバビロン捕囚教会大分裂というゴタゴタ騒ぎは、教会の権威の低下を示す事件となりました。

f:id:egawachikage:20190623081207j:plain

アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口

フランス王フィリップ4世の圧力で教皇クレメンス5世アヴィニョンに移されたこの事件は、古代のバビロン捕囚になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれている。アヴィニヨン捕囚ともいう。ただし、監禁されたわけではなく、豪勢な教皇庁を造営した。1377年に教皇はローマに帰還したが、翌年からはローマとアヴィニヨンに教皇が併存する「大分裂」の時代となる。

 

無茶な弾圧によって、教会への批判が強まる

このような教会の権威の低下に対して、教会を立て直し権威の回復を図ろうとする運動が起きるものの、教会はこうした立て直し運動をむしろ「教会への批判」ととらえ、異端審問や魔女裁判を強化して弾圧を加えます。。

聖職売買などの腐敗が進行するカトリック教会に対して正論を述べて立て直そうとするものは弾圧されるのです。そのため、教会への批判は日に日に高まっていき、のちの宗教改革へとつながっていきます。

 

 

 

引用・出典・参考資料

 

※この記事は、『世界の国旗』ミニサイト と、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。

twitter.com