歴史ノート:宗教改革①ドイツ

ルネサンス(14〜16世紀)教会を批判する目が生まれた。

大航海時代(15〜16世紀)地球は丸かった。教会が正しくないということが確認されてしまった。

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カトリック教会は中世、絶大な支持を集めていましたが、その反面、富や権力が集中して聖職売買や聖職者の堕落などの腐敗も進行していました。

こうした腐敗を批判し、新しいキリスト教を生み出そうという動きが宗教改革です。宗教改革によって生まれた新しいキリスト教の宗派は、旧来のキリスト教に抗議(プロテスト)して生まれたので「プロテスタント」と呼ばれています。

ルター訳聖書

 

宗教改革(16世紀)の流れ

①【ドイツ🇩🇪】当時の神聖ローマ帝国からはじまって、スイス・イギリスに広がっていく

 ・ルターの改革 → 内乱
 ・オスマン帝国🇹🇷の外圧 → 国内分裂

②【スイス🇨🇭・イギリス🇬🇧】

カルヴァンの改革 → 社会のニーズに合っていた。爆発的に広がる。 
・国王中心の改革 → 国王権利の拡大

【対抗宗教改革

カトリックの反撃開始

プロテスタントの多い地域にカトリックを強制すると、嫌だ!という動きが出てくる

宗教戦争( フランス🇫🇷 vs ローマ帝国🇩🇪 )

 

ルターによって、ドイツではじまった宗教改革

宗教改革の波はドイツからはじまります。メディチ家出身のローマ教皇レオ10世は、ローマにサン=ピエトロ大聖堂を建てる資金を集めるため、「これを買えば罪を犯した人物でも魂が救済される(天国に行ける)」という贖宥状(免罪符)を販売しました。

この贖宥状の販売に特に力を入れたのが、ドイツ(神聖ローマ帝国でした。

当時のドイツは統一国家ではなく、多数の領邦国家に分裂していました。政治的に不統一だったため、ローマ教皇のいうことを素直に聞く諸侯(諸侯は、日本で言うなら戦国大名のような存在。地方の有力者。)も多く、ドイツの民衆はローマ教皇庁の搾取の対象となっていたのです。当時のドイツは「ローマの牝牛(めうし)」と皮肉られていた。

搾取を行うカトリック教会にノーを突きつけたのが、ドイツの神学者だったルターです。

 

 マルティン=ルター(1483〜1546)ヴィッテンベルク大学の神学部教授

・聖書主義の主張
ローマ教皇カトリック教会の権威を否定

1517年95ヶ条の論題 をヴィッテンベルク教会に貼り出し、贖宥状への疑問とカトリック教会の腐敗と堕落に対して批判を展開。

95か条の論題

ルターは、「95ヶ条の論題」によって、免罪符ではなく、心からの信仰のみが魂を救済すると主張した。「贖宥状を売るものは永遠の罪を受けるだろう」

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教皇レオ10世 (位 1475〜1521)フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチの次男。派手好き、イベント好きのこの教皇のもと、ローマのルネサンス文化は最盛期を迎えた。

教皇や宗教会議の権威を否定したルターを破門にした。ルターは対決する姿勢を見せた。

皇帝カール5世 (位 1519〜56)が仲裁に入った。(神聖ローマ皇帝のカール5世は、キリスト教カトリックの守り主。)

1521年 ヴォルムス帝国議会 皇帝はルターに自説の撤回を強要 ルターが拒否したため、皇帝は彼を帝国から追放し暗殺しようとするが…

ザクセン選帝侯フリードリヒが、ルターに助け船を出す

突然、ルターを「人さらいにあったことにして」自らの居城にかくまって保護した。(※神聖ローマの皇帝は代々、日陰で静かにしているような存在だったが、カール5世はそうではなかったので、フリードリヒはカール5世のことが嫌いだった。)フリードリヒ自身、神聖ローマ帝国の諸侯の一員なので、これはとても危険な行為だった。

 

1522年、 ルター『新約聖書』のドイツ語訳を完成させる

 → グーテンベルクが発明した活版印刷で大量に刷られる(それまではラテン語でわからなかった内容が、わかるようになった。= 市民が教会の嘘をはっきりと知るところとなった)

  • ルター派の形成 聖書を信仰上の唯一の権威、信仰義認説を重視

→ 反教皇・反皇帝派の諸侯から支持を受ける

ミュンツァーが農民軍を指導 → 宗教改革農奴解放・共有社会の実現などと結びつける

 

ルターは当時、農民に同情的でした。しかし、ザクセン選帝侯に命を救われお世話になったルターは、ドイツ農民戦争が起こったときには、諸侯の立場を支持しました。

これ以降、ルターの考え方は農民にはあまり受け入れられなくなりました。しかし、諸侯には喜ばれ、諸侯たちは、ルターの考え方をもっと支持するようになります。

 

ドイツをとりまく国際情勢の変化

当時の神聖ローマ帝国は大変…。宗教改革によって国内は混乱しているのに、2つの敵とぶつからなくてはならなかった。

イタリア戦争(1494〜1559)神聖ローマ帝国とフランスが、イタリアの支配をめぐり争っていた。特にひどかったのが、以下の二人の時世。めちゃくちゃ仲が悪かった。

🇩🇪皇帝カール5世 vs 🇫🇷フランソワ1世

神聖ローマ皇帝軍のローマ侵略と奪略 →イタリア=ルネサンスは衰退 → アルプス以北へ

オスマン帝国の圧迫

オスマン皇帝スレイマン1世が、ハンガリー🇭🇺を併合(1526)

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皇帝カール5世、ルター派を利用する

迫り来るオスマン帝国に焦った皇帝カール5世はルター派を容認(1526)。ドイツ国内の結束と団結力を重視した。 

1529年、オスマン帝国 第1次ウィーン包囲

レイマン1世は、皇帝カール5世に圧力をかけてきた。しかし、ルター派を容認したことで国内は結束しており、さらに運がいいことに、冬が早く到来したため、撃退に成功した。 

オスマン帝国の撃退に成功したカール5世は、ルター派を再禁止・弾圧(1529)

→利用されたルター派は、抗議文を提出 → プロテスタントの形成

 

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1530年シュマルカルデン同盟の結成。

ルター派を都合よく利用する皇帝カール5世に対して、ルター派の諸侯や都市が遂に結束。カール5世の弾圧に対する、信仰と自由の防衛が目的。

シュマルカルデン戦争(1546〜47)

皇帝の軍隊と、諸侯・都市の軍隊が対決。

 

このように、ルター派の諸侯たちが増え、帝国から分離したり反乱を起こす者が出始めると、ついに神聖ローマ皇帝カール5世は、帝国の分裂を避けるため、ルター派に妥協し、諸侯の信仰の自由を認めざるを得なくなりました。

1555年 アウクスブルクの和議 成立。ルター派の信仰も公認された。

カール5世は諸侯に対して、カトリック派 or ルター派の選択権を認めます。しかし、あくまでも選択権は諸侯にあり、個人の信仰の自由は認められませんでした。

領邦教会の成立

ルター派諸侯は領内の教会に対する支配権を確立。

 

諸侯は、ルター派に変わって教会を自分たちでコントロールできるようになりました。こうして、諸侯は領土内の政治・宗教の最高指導者になっていきます。これを領邦教会制と呼び、皇帝の力がさらに衰え、ドイツの分権化(バラバラな状態)が続くことになりました。

 

ルターによって、ドイツではじまった宗教改革

イギリスやスイスではまた違った展開を見せることになります。

 

ルター、カール5世、レオ10世の画像

レオ10世、悪そう…(^^;)

 

【ルター豆知識】

カトリックでは聖職者の妻帯を禁じていたが、ルター派はこれを認め、ルター自身も修道女だった女性を妻として6人の子供をもうけ、子供たちとの会話を楽しみにしたという。

賛美歌を歌う形式にしたのもルター。ルターがリュートを弾き子供たちが賛美歌を歌う絵

マルティン・ルターと音楽

ヴァルトブルク城に残るルターの部屋

 

 

【そのときインドは?】

イスラーム世界では、イランのサフィヴィー朝とインドのムガル帝国が勃興(成立)サファヴィー朝と隣り合うオスマン帝国は、スレイマン1世の時代に最盛期を迎えた。

【そのとき日本は?】

1507年、日本では管領細川政元が殺害されたのを機に「永正の錯乱」が起こり、室町幕府が機能不全に陥ると、地方に守護・守護大名・国人など、様々な階層の武士たちによる政権が乱立するようになる。 

【このあとのドイツ】

分裂状態が続くドイツでは、アウクスブルクの和議のあとも、領邦君主たちは新教と旧教陣営に分かれて対立します。1618年、ドイツでの宗派対立をきっかけに、三十年戦争が始まります。三十年戦争は、デンマーク🇩🇰やスウェーデン🇸🇪などの外国も領土的野心から介入してきたため、長期にわたる戦乱に…。1648年、講和のためのウェストファリア条約が結ばれ、ドイツを荒廃させた宗教戦争終結する。 

 

  

引用・出典・参考資料

 

※この記事は、『世界の国旗』ブログと、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。

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