歴史ノート:中世ドイツ史

  • カール大帝の孫たちが国を3つに分けたのが、現在の🇩🇪ドイツ、🇫🇷フランス、🇮🇹イタリアのルーツ
  • 中世西ヨーロッパのポイントは、諸侯の力が強く国王が弱い状態から、国王が強くなっていくという部分(イギリスやフランス)。しかし、国によってそれがうまくいかなかった国もある(それがドイツとイタリア)。

ローマ教皇から西ローマ帝国の冠を授けられたカール大帝

西欧世界の基礎、フランク王国

4世紀後半にはじまったゲルマン人の大移動により、5世紀には西ヨーロッパ各地でゲルマン諸王国が分立しました。その多くは短命に終わりましたが、クローヴィスの建国したフランク王国は10世紀まで続き、これが西ヨーロッパ世界の形成につながります。

カール大帝(カール1世)フランク王国の全盛期を築いた

  • 800年 ローマ教皇レオ3世により、継承者不在だった西ローマ帝国の帝冠を授与された。(カールの戴冠
  • 彼の治世で、キリスト教の価値観ゲルマンの文化が融合し、西ヨーロッパ世界の原型が出来上がった

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ジャン・フーケ「カールの戴冠」 (1455年-1460年)

ヨーロッパ主要国が誕生

カール大帝の死後、フランク王国では相続争いが起き、領土は3つに分裂しました。これがそれぞれフランス、ドイツ、イタリアのルーツです。

  • 🇫🇷西フランク(フランス)= 987年 カペー朝が成立
  • 🇮🇹イタリア = 公国と呼ばれる小王国や都市の分裂状態が続く
  • 🇩🇪東フランク(ドイツ)=  962年 戦功をあげたオットー1世が、ローマ帝国の帝冠を授けられた

東フランク王国(🇩🇪ドイツ)では、分裂後100年もたたないうちに、カール大帝の血をひくカロリング朝が断絶してしまい、諸侯の選挙で王が選ばれるようになりました。

中でも、オットー1世という人物が、アジア系のマジャール人やスラブ人と戦って勝利し名声を高めます。カトリック教会のローマ教皇は、西ローマ皇帝の位と冠を、オットー1世にも与えました(962年)キリスト教会と関係を結んだ東フランク王国は、のちに、神聖ローマ帝国と言われるようになる。(神聖ローマ帝国という名称が定着したのは13世紀ごろ。)

 

オットー1世(在位962〜73)初代神聖ローマ皇帝

ローマ皇帝とは、地上における神の代理キリスト教世界を守るのはわたしだ」

神聖ローマ帝国の諸侯たちは自律性が強かったため、ローマ皇帝の言うことをあまり聞きませんでした。そこで、オットー1世は、国内の有力諸侯(部族大公ともいわれるフランケンやバイエルンなどの諸部族)の力を抑えるために、教会の力を利用しようとしました。

帝国教会政策 … 聖職叙任権などを皇帝が持ち教会を統制する政策

「わたしはローマ皇帝である。地上における神の代理でキリストの守り主なのだ!だから、教会の責任者を任命してもいいだろう?」

オットー1世は、教会に土地を寄進する代わりに、自分の一族や関係者を司教などの聖職者に任命し、教会を統制しました。

  • 聖職者は、地位が世襲されない(諸侯が地位を世襲することがない)
  • 聖職者は文書の作成などに通じている → 国家官僚を兼ねさせる(政府統治に利用)

 

イタリア政策(10〜12世紀)

神聖「ローマ」帝国であり、西ローマ皇帝となったオットー1世は、イタリアを支配下におさめることにこだわっていました。

実際の地名でありカトリックの中心都ローマはイタリアにあるのに、ドイツにある国が「ローマ」を名乗りローマが支配下にないことを気にしていた。

幾度となく、ローマを奪うべくイタリアに攻め込んでは撃退される…という状況がしばらく続きます。イタリアに熱中した皇帝がドイツ国内にいないため、次第に諸侯が自立化してしまいました。 

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領邦の形成(13〜14世紀)諸侯の領土がそれぞれ独立国のようになってしまった。。

最盛期には、領邦が300個以上形成され、国内で、神聖ローマ皇帝の影響力がほとんど及ばなくなってしまいます。

神聖ローマ皇帝は、せめて聖職者だけは味方につけておきたいと考えていました。

しかし、当時のカトリック教会は、神の権威を背景に、教皇が最高権力者となりつつあり、腐敗と堕落が進行していました。「司教」や「大司教」といった高位の聖職者になれば、王様よりも良い暮らしができたため、賄賂を贈って聖職者になろうとする者が後を絶たなかったのです。教皇グレオリウス7世は、カトリック教会を引き締めようとします。

ローマ教皇グレゴリウス7世

  • 聖職売買を禁止にする
  • 聖職者が妻を持つことも禁止
  • 聖職者を任命できるのは教会のみであるとした

これに焦ったのが、当時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世です。 任命を禁止され、帝国教会政策がおよばなくなってしまえば、国内の権力基盤が脅かされてしまいます。

ハインリヒ4世(位1056〜1106)

ハインリヒ4世

叙任権闘争 聖職叙任権をめぐり、教皇グレゴリウス7世と対立

グレゴリウス7世教皇権が皇帝権に対し優位にあることを主張し、1076年にローマ帝国皇帝ハインリヒ4世を破門にします。ハインリヒ4世は支配下の諸侯からの支持を、瞬く間に失ってしまいました。当時、キリスト教会からの破門は、「社会からの追放」に等しかったからです。諸侯から「破門にされた人間に従うつもりはない」と、廃位の決議をされてしまいます。

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1077年  カノッサの屈辱

追い詰められた ハインリヒ4世は、教皇に破門を解いてもらおうと、雪の中、裸足で3日間もグレゴリウス7世のいるカノッサの門の前に立ち尽くして謝罪し、やっとのことで許しを得ます。(雪の中で裸足で食事もなしに3日間立っていたという記述は脚色されたものだともいわれています)

この事件により、人々はローマ教皇の権威の絶大さを再認識することになり、ローマ教皇自身も、その後、自分に逆らおうとする王が現れるたびに、自らの権威を誇示するかのように「破門戦術」を使うようになります。

カノッサの屈辱 / ハインリヒ4世(中央)
トスカーナ女伯マティルデ(右)クリュニー修道院長(左)

 

神聖ローマ帝国が次に迎えたのは、皇帝不在の時代でした…

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神聖ローマ帝国 大空位時代(1256〜73)事実上の皇帝空位の時代。

※実際には空位ではなく、帝位についた者がいたが、いずれもドイツ人以外であったので、ドイツ史では「大空位時代」といっている。

  • シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世が1250年に死去ドイツ王でありながらシチリア島に宮廷を置いた)
  • そのあとのコンラート4世も間もなく1254年に病死、シュタウフェン朝は断絶
  • そのあと新皇帝に選ばれたオランダ伯ウィルヘルムも1256年に死去

この後もイギリス、フランスの介入によって非ドイツ人の皇帝が選ばれたため、ドイツ人がドイツを実質的に支配することは出来ず、その状態が約20年続きました。

1273年ハプスブルク家ルドルフ1世が選出され、大空位時代は収束しますが、その後も皇帝選出をめぐる混乱は続きました。帝位には、ナッサウ家ルクセンブルク家、ヴィッテルスバハバイエルン家などがめまぐるしく交替し、不安定な状態が続きます。次第に皇帝選出権を持つ諸侯が少数に絞られていき、ほぼ7諸侯に限定されるようになりました。

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カール4世(位1347〜78)

文人皇帝として知られ、しばしば、最初の「近代的」君主と称される人物。プラハ大学の創設、教皇のローマ帰還への尽力などでも知られる。百年戦争ではフランス王国側に立って参戦した。モラヴィア辺境伯ルクセンブルク伯でもあり、ボヘミア王も継承した。父ヨハン(ヤン)の代にルクセンブルク家がボヘミア王位を継承し、若くしてボヘミアの君主となったカール4世は、チェコ人によってしばしば「祖国の父」=ボヘミアの父と称される。…が、その治世については歴史的評価が分かれている。

金印勅書の発布(1356)

→皇帝選出権を7人の選帝侯に付与

→皇帝・教皇に対する諸侯・教会の優位性を法的に容認

1438年以降、皇帝位はハプスブルク家世襲

 

大空位時代の後、カール4世という人物が、7人の有力諸侯の選挙によって皇帝が選ばれるというルールを定めた「金印勅書」を出します。

↓ 金印勅書の金の印章

1356年の金印勅書の金の印章

↓ 金印勅書

金印勅書

↓ 七選帝侯

七選帝侯

 

このようにして、神聖ローマ帝国ではどんどん皇帝の力が衰え、諸侯たちが力をつける時代になってしまいました。

 

中世🇩🇪ドイツまとめ

中世のドイツは、ローマ教皇から西ローマ帝国としての冠を与えられ、これが1806年まで続く神聖ローマ帝国の始まりとなる。しかし、皇帝がイタリアにこだわり国内が空中分解。諸侯の力がますます強くなった。

 

カール大帝、オットー1世、カール4世

 

ローマ帝国からの流れ】

共和制ローマ三頭政治ローマ帝国
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ローマ帝国が東西に分裂
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西ローマ帝国は100年も経たずに滅亡、東ローマ帝国ビザンツ帝国)は1000年続いた
  ↓
西ローマ帝国だったところにフランク王国ができる
  ↓

ドイツ、フランス、イタリア(…のルーツになる国々)に分裂

ドイツは神聖ローマ帝国になる(1806年まで続いた)

 

【現代のベルギー代表的歴史家、ピレンヌの言葉】

ムハンマドなくしてシャルルマーニュなし」(ピレンヌ・テーゼ)

シャルルマーニュカール大帝のフランス語名

西ヨーロッパの発生、つまり古代世界から中世初期の世界への移行について、このように言った。

地中海がイスラムの征服によって商業地域として閉ざされてはじめて、西ヨーロッパでは古代の経済生活が、それにともなってまた古代文化の最後の名残が消滅した、と。この説はすぐに賛否両論を引き起こし、1928年のオスロ歴史学会であらためてこれを論じたが、きわめて活発な論争を引き起こした。

 

 

引用・出典・参考資料

 

※この記事は、『世界の国旗』ブログと、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。