歴史ノート:中世イギリス・フランス史

十字軍の派遣は失敗に終わりました。しかし、王や諸侯が貴族を率いてイスラーム勢力と戦ったことで、結果的に主君と家臣のチームワークが高まりました。王権が強化され、中世後半の国々は総じて「王国」らしくなりました。( それまでは王様の権力はあまり強くなかった ) 

中世イギリスイングランドフランス史の流れ

 

最初から権力が強かったイギリス王

ウィリアム1世「征服王」(在位1066〜87)

イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった人物(フランスの人)。元の名はギヨーム2世で、1066年のヘイスティングズの戦いに勝利し、ウィリアム1世としてノルマン朝を開いた。

フランスの統治方法を導入し、強力な封建王政を確立した

→ 大陸諸国と比べ王権は強大。武力によって国を制圧した

ウィリアム1世と『バイユーのタペストリー』の画像

   ↓   ↓   ↓  王位継承

ヘンリ2世(在位1154〜89)アンジュー伯爵

(ウィリアム1世の子孫で、ノルマン朝最後のイングランド王)

イギリスの領土を引き継ぎ、さらに結婚によりアキテーヌ侯領を継承し領土を拡大した

→フランス西部大半を領有

プランタジネット朝(1154〜1399)成立

 

ノルマン朝は、100年も持たずに断絶します。その次の王として、フランス王の家臣のアンジュー伯フランス王国のアンジュー地方を統治した貴族の家系)だったヘンリ2世が王位を継承し、ここからの王朝がプランタジネット朝です。

ヘンリ2世は、もともとフランスに広大な領地を持っていました。王位継承によって、イギリスはフランスの西半分を領有することになります。

フランス王からしてみれば、どんどん国内がイギリス領になっていくという状況。このあとイギリスとフランスの中は最悪になっていきます。

このヘンリ2世の子が、「獅子心王」「獅子王」として名高いリチャード1世。第3回十字軍ではサラディンと死闘を繰り広げたヒーローですが、王位のほとんどを戦場で過ごしたため、イギリス王としての業績はほとんどありません。

その次の王が、リチャード1世の弟のジョン王です。

イングランド史上最悪とも言われる君主。通称「ジョン欠地王」「ジョン失地王」。王様なのに◯世 とつけてもらえないほど…。世界無能統治者ランキングでもトップ10に選ばれたとか。イギリスでのジョン王は評判が悪すぎて、ジョン王以降王家でジョンと名乗る王は一人もいない。

ジョン王 (在位1199〜1216)

ジョン王の画像

  • 教皇インノケンティウス3世に破門にされる(1209)
  • 🇫🇷フランス王フィリップ2世「尊厳王」に敗北(1214)

→ ジョン王、大陸英領土の大部分を喪失

ジョン王は失政を重ねた挙句、フランス王のフィリップ2世「尊厳王」との戦いに敗れてフランス内のイギリス領を失いました。また、教皇インノケンティウス3世には破門にされ、国内には重税をかけ国民の支持まで失います。

   ↓   ↓   ↓ 

マグナ=カルタ 大憲章(マグナ=カルタ)の承認(1215)

課税に帰属の同意を必要とするなど、国王の力を弱めようとする動きがでてきた。

   ↓   ↓   ↓ 王位継承

ヘンリ3世(在位1216〜72)ジョン王の息子。この人もあまり政治の力は高くなかった。

1258年 シモン=ド=モンフォールの反乱

1265年 議会を開いて政治について話し合うことを王に認めさせた(シモン=ド=モンフォール議会 )= イギリス議会の起源

→ 大貴族・高位聖職者・州の騎士・都市の代表などを集めて国王の政治を評価したり審議したりする機関が設けられた

 

1265年8月、イーブシャムの戦いでエドワード軍に敗れて戦死する改革派諸侯の指導者第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールを描いた絵画

   ↓   ↓   ↓ 次の王

エドワード1世(在位1272〜1307)

1295年 模範議会の収集…身分制議会

   ↓   ↓   ↓ 次の王

エドワード3世(在位1327〜77)

二院制議会の成立

上院(貴族院=第貴族と高位聖職者

下院(庶民院=各州の騎士と各年の代表

 

エドワード1世は、「どうせ貴族たちが王の政治に意見や反発をするなら、はじめから議会を開いて共同でおさめるのがよい」という考えを最初から持っていました。そこで、社会各層の代表を集めて模範議会をつくり、議会との協調によって国(イギリス)を運営しようとします。

ヘンリ3世の時代に起こったシモン=ド=モンフォールの議会や、エドワード1世以降の模範会議はイギリスの議会政治の基礎となり、比較的、王権に対して議会の力が強いというイギリスの特徴が形作られました。

 

🇬🇧中世イギリスのまとめ

中世のイギリスでは、最初から王様の権力が強かった。政治能力の低い王様が出てきたら困る(困った)ので、王の力を下げていこうとして議会制度を作りあげたことがイギリスの基礎となっている。

 

フランスの王様は権力が弱かった

フランスでは、各州の領土を諸侯が持っていて、王様の領土はとても小さかったので、王様の権力は領土内にしか届きませんでした。そのため、フランスの王様は、大きな権力を持っていなかったのです。王の命令を国全体に機能させるために、フランスの王様は領土を拡大していきます。

カペー朝(987〜1328)

フィリップ2世「尊厳王」(在位1180〜1223)

イギリス王ジョンを破りフランスの大陸英領を没収

   ↓   ↓   ↓ 次の王

ルイ9世「聖王」(在位1226〜70)

第6回、第7回十字軍の中心人物。十字軍は失敗に終わるが、イスラーム勢力に対して奮闘したことで「聖王」の称号が与えられた。フランス王としてのリーダーシップは十分に発揮した王

1229年  アルビジョワ十字軍を作り、異端アルビジョワ派を討伐

→ アルビジョワ派が多かった南フランスを自分の領土にした 

   ↓   ↓   ↓ 次の王

フィリップ4世「端麗王」(在位1285〜1314)イケメン王という意味

王権の拡張に執念を燃やした国王。即位したときから教会関係者を排除し、王権思想を主張する法律家をブレーンとした。三部会を開催したことで国民の支持も取り付けていた王。

十字軍の後、フィリップ4世の時代は、騎士たちが経済的に困っていました。フィリップ4世は、騎士たちを救おうとして、ローマ教皇とぶつかることになります。

フランスの王 フィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世の画像

🇫🇷中世フランスのまとめ

中世のフランスでは、王様の権力は弱かったが、尊厳王、聖王、端麗王らが王権を強くした。

 

100年にわたる対立、英仏百年戦争

このイギリスとフランスが、中世ヨーロッパの覇権をかけて百年以上も戦うのが百年戦争です。両国の間には羊毛生産地のフランドル地方(現在のベルギー)があり、常に取り合いになっていました。また、フランスのカペー朝が断絶し、ヴァロア朝が成立した際、イギリス王がフランス王家の王位継承権を訴えたことから、両国の対立が深まりました。

百年戦争(1339〜1453)

カペー朝の断絶 → ヴァロア朝(1328〜1589)が成立

🇫🇷フィリップ6世が新たなフランス王に即位すると…イギリス王🇬🇧エドワード3世が、フランスの王位継承権を主張した。

エドワード3世の母親がカペー朝の出身だったので、これは血筋的には正しかった。)

🇬🇧エドワード黒太子(1330〜76)の活躍 (真っ黒な鎧を着ていた人)

  • クレシーの戦い(1346)長弓兵の使用で、フランス軍に圧勝
  • ポワティエの戦い(1356)フランス王を捕虜とする

   ↓   ↓   ↓  前半は、イギリス軍は圧倒的に優勢だった

 

当初、イギリスはとても強かったので、フランスは崩壊の危機に立ちます。誰もがこのまま、イギリスが勝利するだろうと予想していました。しかし、そのとき、フランスで奇跡が起きます。

  • 🇫🇷シャルル7世(1422〜61)の反撃
  • 聖女 ジャンヌ=ダルクオルレアンを解放

神に選ばれ、神の子とまで呼ばれた16歳の少女ジャンヌ=ダルクが、シャルル7世のもとに登場。「神様が、あなたを助けるようにわたしに命令しました。わたしが、神の御告げをもって、あなたを助けます。」

ジャンヌ=ダルクの登場によって、フランスの士気は一気に高まります。

「わたしたちには神がついている。負けるわけない。」

そしてジャンヌ=ダルクの活躍のもと、イギリス軍に逆転勝利。イギリス勢力のほとんどを大陸から追い出し、戦争が終結しました。

オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルク(ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー1886年-1890年)

1429年のジャンヌのランス進駐(ヤン・マテイコ)

ジャンヌ・ダルク (1412-1431) に纏わる歴史の中でもオルレアンの解放とシャルル7世の戴冠式は重要。イングランドとの百年戦争の最中、ランス大聖堂で戴冠式を行うことによりシャルル7世を正式のフランス王とし王の空白を解消した。

 

【このあとのイギリス】

百年戦争が終わったあとも、イギリスでは戦いが続きます。

バラ戦争(1455〜85)

ランカスター家(赤薔薇の紋章) vs ヨーク家(白薔薇の紋章)2つの家系の間での王位継承争いが起こった

→ ランカスター家のヘンリ7世が即位し、ヨーク家の娘と結婚。ドラマチックな展開を見せて終結

テューダー朝(1541〜1603)の成立

ヘンリ7世以降のイギリスはテューダー朝といいます。バラ戦争が長く続いたことにより、貴族たちはお互いに潰し合い、没落していきました。国内の貴族が没落した状態で即位した王様だったので、イギリスの王様の力はまた強くなっていきます。

そしてイギリスは、エリザベス1世の時代に大いに反映することになります。

 

【このあとのフランス】

イタリア戦争(1494〜59)

神聖ローマ皇帝と、イタリアの支配をめぐって対立していく

🇫🇷 vs 🇩🇪

 

【ジャンヌ=ダルクのその後(;;)

その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。

ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われた結果、ジャンヌの無実と殉教が宣言された。その後ジャンヌは1909年に列福1920年には列聖され、フランスの守護聖人の一人となっている。

 

【この頃日本は】英仏百年戦争が1339年から1453年。

14世紀中期  室町幕府が成立した頃、英仏百年戦争が始まった

鎌倉幕府打倒に執念を燃やす後醍醐天皇に、楠木正成足利尊氏らが呼応し、1333年、鎌倉幕府が滅亡する。しかし天皇による建武の新政は武士層の不満を呼び、足利尊氏が離反。1338年 足利尊氏征夷大将軍となり、室町幕府が成立する。

後醍醐天皇が吉野へ逃れ、南朝が成立 → 南北朝の争乱がはじまった。

14世紀後期

南朝の衰退を見た3代将軍 足利義満は、有力守護を力で抑える一方、南北朝の合一を進め、1392年、南朝後亀山天皇を帰京させる形で争乱に終止符を打った。

15世紀前期  足利義教がくじ引きで将軍に選ばれた頃、ジャンヌ=ダルクがオルレアンを解放した

足利義満は、1404年から明との間に勘合貿易を開始し、莫大な利益を得る。その後、将軍職は義持、義量(よしかず)と継承されたが、義量が早世し後継者が不在となったため、足利義教(よしのり)がくじ引き(神意)によって後継者に選ばれた。

 

  

引用・出典・参考資料

 

※この記事は、『世界の国旗』ブログと、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。

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