歴史ノート:中世ビザンツ帝国史

ビザンツ帝国東ローマ帝国)概要

6世紀のユスティニアヌス帝時代は地中海世界支配を回復したが、以降は東方のササン朝ペルシアとの抗争、北方からのスラブ人の進出などによって領土を縮小させていった。7世紀以降はイスラーム勢力の侵入に脅かされる。それでもコンスタンティノープル東西交易で繁栄し、帝国も存続。いくつかの王朝が交代する。しかし、13世紀には十字軍に征服されて首都を明け渡し、その後回復したがその支配は首都周辺に限られ衰退した。この間、東方教会はローマカトリックと対抗するギリシア正教として分離し、アラブ世界に広がる。1453年、オスマン帝国の攻撃によって首都が陥落し、ビザンツ帝国も滅亡した。

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隋臣を従えたユスティニアヌス帝
ラヴェンナサン・ヴィターレ聖堂」(イタリア)のモザイク画

中世ビザンツ帝国史の流れ

 

1000年続いたローマ帝国の継承国家

ビザンツ帝国とは、ローマ帝国が東西に分裂したあとの東ローマ帝国のことで、現在のギリシア🇬🇷のルーツになった国です。(首都コンスタンティノープルは現在のトルコ🇹🇷のイスタンブール西ローマ帝国ゲルマン人の侵入もあり100年も経たずに滅亡してしまいますが、東ローマ帝国であるビザンツ帝国の方は1000年以上も永らえることになります。ヨーロッパの端に位置するビザンツ帝国は、民族移動の影響が少なく、安定した統治を行うことができました。都のコンスタンティノープルを中心に、商業と貨幣経済が大いに繁栄します。 

東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル

東ローマ帝国ビザンツ帝国)最盛期

ユスティニアヌス大帝(位527〜565)

マケドニア地方の出身で、農民から皇帝になった人物。古代末期における最も重要な人物の一人とされている。文字も読めないし書けないという状態から、皇帝にまでのぼりつめた。(当時の東ローマ帝国は、日本の戦国時代のように、運と才能があれば皇帝になれる時代だった)その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。

ユスティニアス大帝と皇后テオドラ
ラヴェンナサン・ヴィターレ聖堂」のモザイク画

ビザンツ帝国最盛期の皇帝・ユスティニアヌス帝は、「古代ローマ帝国の夢よ、もう一度」とばかり、かつてのローマ帝国領を取り戻そうと考えました。20年余りゲルマン人との戦いを続け、北アフリカヴァンダル王国やイタリアの東ゴート王国を滅ぼし、地中海をぐるっと取り囲む大帝国を叶えます。

↓ 526年と6世紀後半のヨーロッパの地図@世界の歴史まっぷ

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西ローマ帝国の滅亡後は、ローマ帝国の正式な継承国家として『ローマ法大全』の編集を行い、世界遺産にもなったビザンツ様式のハギア=ソフィア大聖堂を建てました。

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ハギア=ソフィア大聖堂

異民族の侵入により、領土が縮小…

領土の拡大に成功したビザンツ帝国ですが、ユスティニアヌス帝のあと、異民族の侵入が盛んになります。領土はどんどん小さくなってしまいました。

ビザンツ帝国は国家を守るために、領土をこまかく分けて管理する軍管区制や、農民を増やして防衛力を高める屯田兵を行います。

  • 軍管区制(テマ制)※秦の始皇帝が行っていた郡県制とほぼ同じ(領土を軍管区に分け、司令官に軍事・行政権を与え統括する制度)
  • 屯田兵(兵農一致)兵士に一定の土地保有を義務付け、世襲の農民兵とする(土地と家を与えることで、その土地を守らせる)

しかし、領土の縮小と文化的影響力の低下を食い止めることはできませんでした。また次第に、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容していきます。「ローマ帝国」と名乗りつつも、住民の多くがギリシアとなり、620年には公用語ラテン語からギリシアに変わります。

これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国と評されることもある。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。

ギリシア正教会のはじまりと教会の対立

ビザンツ帝国は国教としてローマ帝国からキリスト教を継承しましたが、726年にレオン3世聖像禁止令を出したことから、ローマ教会との間で対立が始まります。

レオン3世(位717〜41)

皇帝の血統だったのではなく、シリア系の人物でテマ(軍管区)の長官として活躍し、実力で皇帝の地位を勝ち取った人物で軍人。その活躍とは、小アジアでのイスラームとの戦いでたびたび勝利したことであり、その獅子のような勇敢さからレオン(獅子)というあだ名で呼ばれ、即位の際にも正式な名前にした。

726年 聖像禁止令の発布

イスラーム教徒はキリスト教の教会が偶像を崇拝していると批判し、人びともそれに同調しようとしていた。そこで小アジアの教会は、ビザンツ皇帝に対し、本来のキリスト教信仰に帰り、聖像崇拝を止めるべきだということをたびたび訴えるようになった。レオン3世も、イスラームの浸透を抑えるために、聖像崇拝禁止に踏み切ることを決意した。

全ての聖画像イコン)の製作・崇拝を禁止修道院の財産を没収

↓ イコンについて議論するレオン3世

皇帝とイコンについての議論の画像

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偶像崇拝論争(8〜9世紀)

聖像を使用して布教活動をするローマ教会とビザンツ帝国の対立

東西教会分裂1054年

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こうして、ビザンツ帝国キリスト教コンスタンティノープル教会を中心にして独自の発展をとげ、ギリシア正教といわれるようになりました。(皇帝と教会の関係では皇帝教皇主義を採用)そして、ユスティニアヌス帝が建造したコンスタンティノープルのハギア=ソフィア聖堂はギリシア正教会の総本山とされるようになります。

セルジューク朝の圧迫(11世紀後半)

11世紀には、イスラーム勢力のセルジューク朝に攻められ小アジアの大半を奪い取られる)、対立していたローマ教会に十字軍に救援を求めたものの、13 世紀には十字軍に首都コンスタンティノープルを占領されてしまうなど、ちぐはぐな動きで衰退していきます。

第4回十字軍(1204)ヴェネツィア商人の主導

ラテン帝国の成立(1204)第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領して建てた国

ビザンツ帝国は一時滅亡(約半世紀)その後復活(1261)するが、結局は滅亡…

最後は、オスマン帝国によって滅ぼされてしまいます。

1453年 メフメト2世により、コンスタンティノープル陥落

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コンスタンティノープルに入城するメフメト2世
(ジャン=ジョゼフ=バンジャマン・コンスタン,1876)

こうして、1000年続いた東ローマ帝国ビザンツ帝国)は滅亡しました。

そしてこのあと、東ローマ帝国はロシアの原型となるキエフ公国が継承することになっていくのです。。

 

【皇后テオドラのエピソード】

ユスティニアヌス帝の妃、皇后テオドラは踊り子出身で美貌の野心家、大帝に劣らぬ政治家でもあった。大帝のローマ領奪回のための戦費をまかなうため、国民に重税を課したが、532年、増税に反撥したコンスタンティノープル市民が反乱を起こし競技場に立てこもる。彼らは「ニカ(勝利せよ!)」と叫んで暴動を起こしたのでこの反乱を「ニカの乱」という。この反乱でハギア=ソフィア聖堂は焼け落ち、絶望したユスティニアヌス帝は逃亡しようとしたが、そのとき皇后テオドラはこう言った。

「逃げてはなりません。たとえそれで命が助かったとしても、ひとたび皇帝であったものが、威厳も権力も失い、この先惨めな姿をさらして生きていくおつもりですか。

わたくしは逃げません。この紫の衣を脱ぎたくはない。たとえ1日たりとも、人々がわたしを皇后陛下と呼ばない日があるならば生きている価値はない。お逃げになるというのならば、お逃げなさい。船ならあります。財宝だってたくさんあります。ですがその先に待っているのは、惨めな毎日と屈辱にまみれた死。ただそれだけではありませんか。

陛下。いにしえの言葉にもございます。皇帝の衣は最高の死装束であると。その通りではございませんか。わたくしテオドラは、決して逃げたりはいたしません。」

皇后テオドラのとばす激に奮い立ち、一気に反撃に出た皇帝の軍は、形成を逆転させる。暴徒はふたたび競技場に押し込まれ、3万人が虐殺された。都を揺るがした、ニカの乱の終幕だった。

「 皇帝の衣は最高の死装束 」歴史を変えたこの言葉は、ギリシャの古典からの引用だったそうです

ニカの乱の2年後(533年)ユスティニアヌスが送った軍勢は、 北アフリカを攻め落とす。彼が夢見たのは、永遠の帝国ローマの栄光を取り戻すこと。異民族の台頭でいつしか領土を減らしていた帝国が、ふたたび、地上唯一の国家として君臨し、地中海をふたたびローマ人の海とすること。その偉業は、20年以上を費やして成し遂げられた。(552年 ローマ奪還)

そして、「ローマこそ、この世の終わりまで続く、地上最後の唯一の帝国なのだ。」という強い信念が、後の皇帝たちに受け継がれ、長く帝国を支えていくものとなった… 

東ローマ帝国~繁栄と滅亡・皇帝たちの軌跡【TBSオンデマンド】エピソート2「最強の皇帝が残した華麗なる芸術」より)

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【ハギア=ソフィア大聖堂のその後】

ハギア=ソフィア大聖堂

537年 ハギア=ソフィアの建築は、高度な建築技術を持つローマ人だけに成せる技でした。皇帝ユスティニアヌスは、名実ともに世界最高の聖堂を築くべく、大いなる野望を燃やしたといいます。ニカの乱で焼け落ちた大聖堂は、5年の歳月と10万人の労働力を費やし、更に大きく、誰も見たことがないものへと生まれ変わりました。完成した聖堂を見て、ユスティニアヌス帝はこう叫んだと伝えられています。

「 我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ。ソロモンよ、我は汝に勝てり 」

こうして、旧約聖書におけるソロモン王の大神殿を思わせる、壮大な傑作が誕生しました。その後ハギア=ソフィアは、東ローマ帝国を滅ぼしたイスラム王朝オスマントルコの手で、聖堂はモスクへと姿を変えました。しかし帝国の象徴ハギア=ソフィアは、姿を変えて後世に生き続けています。

東ローマ帝国の崩壊後、イスラムの都となったかつての帝都に続々と築かれた巨大モスクはみな、大きなドームを戴くスタイルを踏襲したものでした。ハギア=ソフィアの壮大な姿は、イスラムの人々の心を揺さぶり、その様式はモスク建築の手本となって、広くイスラム文化圏へと伝播していったのです。

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現在のハギア=ソフィア大聖堂

モスクに改造されたハギア=ソフィア。大ドーム上の十字架はイスラムの三日月に取り替えられ、堂内を飾っていたキリスト教の聖遺物は取り外され、壁画のモザイクは漆喰で塗り込められました。

堂内の奥壁には、メッカの方向を示すくぼみ(ミフラーブ)と、建物の周囲に4本の尖塔が新たに作られ、現在のような姿になりました。周りの列柱に取り付けられた8枚の円盤状の額(メダリオン、直径7.5m)には、金色に輝く装飾アラビア文字で、イスラム唯一神アッラー預言者ムハンマドあるいは歴代カリフなどイスラム聖職者の名前が書かれています。

20世紀になってトルコ共和国が発足すると、アタテュルク政権のもと、1930年代から壁の漆喰を剥ぎ取る作業が進められ、無宗教の博物館として公開されるようになりました。ギリシャ正教イスラム教の美術が混在する、美しい世界遺産となっています。 

 

引用・出典・参考資料

 

※この記事は、『世界の国旗』ブログと、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。