歴史ノート:イギリス市民革命と議会政治確立

国民から愛されたエリザベス1世

イギリス国教会を成立させたヘンリ8世の娘、エリザベス1世は、イギリスの絶対王政の頂点にいた、イングランドアイルランドの女王(在位1558 〜1603)。テューダー朝第5代にして最後の君主。

エリザベス1世

 この時代、世界最強の国はスペインでした。スペイン王フェリペ2世神聖ローマ皇帝/ドイツ皇帝/ハプスブルク家)は熱心なカトリック教徒で、ヨーロッパ全土を聖戦の渦に巻き込みました。その中で唯一、スペイン王に逆らったのが、英国(イングランドプロテスタントの女王、エリザベス1世。

アルマダ海戦によって、フェリペ2世の誇る「無敵艦隊アルマダ)」を撃破しスペインを衰退に追い込んだエリザベス1世は、東インド会社を設立し、スペインに代わる世界帝国への道を歩みます。このことは彼女を一躍有名にしました。

国民からも「愛すべき女王ベス」と敬愛された女王でしたが、母は父に殺され、エリザベス1世も姉によってロンドン塔に長く監禁されたりと、私生活は幸せではなかった。(生涯未婚を通したため「処女王」と呼ばれた。)

ピューリタン革命と名誉革命

エリザベス1世が死去すると、スコットランド王がイギリス王を兼ねるようになり、スチュアート朝がはじまります。スチュアート朝の王、ジェームズ1世が行なったのは専制政治でした。ジェームズ1世は「王権神授説(王の権力は神から与えられたものであり、絶対だ)」と唱え、独裁を行います。(子のチャールズ1世も独裁を行なった)

イギリス国教会の立場からピューリタン清教徒カルヴァン派の一派)を弾圧したため、議会との対立が深まりました。

そんな中、議会派の中からクロムウェルという人物が登場。

内乱がはじまりカルヴァン派のリーダーになると、農民を鉄騎隊に組織して王党派を破ります。→議会では他派を抑え、国王チャールズ1世を処刑、共和制をうちたてた。

このピューリタン革命の結果、イギリスには王がいない共和制の時代が訪れます。リーダーはクロムウェル

  • アイルランドを征服してイギリス領とする
  • オランダを航海法によって挑発(イギリスとその植民地からオランダ船を締め出した) 

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→🇬🇧イギリスは🇳🇱オランダにかわって、世界の貿易市場をリードするようになる

しかし、ここからクロムウェルの本性が…

1653年 クロムウェルは、自ら「護国卿」という役職を創設し就任。議会を解散した後、独裁をはじめました。さらに護国卿を終身の役職にすることで、一生権力の座に留まろうとしたのです。劇場の閉鎖や、クリスマスの禁止など厳格なピューリタン精神にたった独裁政治を行い、国民の不満を高めました。

国民「結局、自分が王になりたいだけだったの?これなら王の方がマシだよ!」

クロムウェルの死後、息子が後を継ぐが国民の反発がおさまらず、息子はフランスに亡命

逆に亡命先のフランスから迎えられたのが、スチュアート朝の王チャールズ2世。

再びスチュアート朝の王が戻り王政復古を迎えますが、この王も議会と対立し議会を解散させます。さらに、その息子ジェームズ2世もまた、議会を解散させます。

専制的な国王と議会の対立が続く…

 

名誉革命で議会派が勝利

議会は考えました。「独裁をふせぐために、海外から王を招き、議会を尊重するという条件で王位についてもらおう」と。

1688年、議会は国王ジェームズ2世の追放を決議し、 オランダ総督ウィリアム3世とその妻メアリ2世を共同統治王として迎えました。両王は議会の提出した「権利の宣言」を認め、権利の章典として発布。これにより、王に対する議会の優越が確立されました。議会が政治を主導する、イギリス立憲王政ができあがったのです。

無血で行われたこの革命は名誉革命と呼ばれています。

 

グレート=ブリテン王国の成立

ウィリアム3世の死後、ジェームズ2世の子アンが即位。

1707年、アン女王はイングランドスコットランドを合同し、グレート=ブリテン王国を成立させました。(両国の議会がひとつに)

 

王は君臨すれども統治せず 

しかし、アンの子が幼くして亡くなってしまったため、スチュアート朝は断絶してしまいます。1714年、ドイツのハノーヴァー侯がジョージ1世として迎えられました。ドイツ育ちの王は英語が話せなかったので、国政は議会任せに。これは、幾度も国王と対立してきた議会にとっては好都合でした。首相となったウォルポールは、内閣が議会に責任を負うという「責任内閣制」を確立します。

こうして、王に対するイギリス議会の優越性がさらに固まり、国王は政治に関与しないという「王は君臨すれども統治せず」という原則が固定化したのです。

 

イギリス国旗について

1603年 🏴󠁧󠁢󠁥󠁮󠁧󠁿イングランド+🏴󠁧󠁢󠁳󠁣󠁴󠁿スコットランド → グレート=ユニオン旗に

1801年 北アイルランド併合 → ユニオン=ジャック(ユニオン=フラッグ)に

 

チャールズ1世の処刑

チャールズ1世の処刑

神から授かった王権に国民は服従すべしと唱えて議会と対立したチャールズ1世は、1649年「自由とは、国民が政府に参加すれば得られるものではない。臣民と主権者はおのずから異なる」と、絶対君主としての信念を示す言葉を残して処刑された。

クロムウェルの死後、王政復古によってクロムウェルは「王殺し」「簒奪者」と徹底的に貶められたが、18世紀に入るとアイザック・キンバーやジョン・バンクスによって見直しが行われ、19世紀に入ると更にイギリス知識人による再評価が進みトーマス・カーライルは『英雄論』でクロムウェルを英雄の一人として取り上げ、フレデリック・ハリソン(英語版)は軍人としてのクロムウェルを「我が国の歴史に一人二人を数えるだけである」と高く評価した。数百年経った今も、類稀な優れた指導者か強大な独裁者か、歴史的評価は分かれている。ウェストミンスター宮殿正門前には、鎧姿で剣と聖書を持ったクロムウェル銅像がある。

 

 

出典・参考資料

※この記事は、『世界の国旗』ミニサイト と、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。

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