歴史ノート:たくさんの国が独立した時期 いつ?

大コロンビア共和国(1819〜1831)※スペインからの独立

南アメリカ解放の父」と言われるラテンアメリカ独立運動の指導者、シモン=ボリバルが作った。(大統領になる)グラン・コロンビアとも呼ばれる。現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドルパナマの全域と、ガイアナ、ブラジル、ペルーの一部に相当する。

1821年に独立したイスパニョーラ島東部のスペイン人・ハイチ共和国(現在のドミニカ共和国)から編入を求める声も上がったが、翌1822年のハイチの侵攻によりこの計画は流れた。

大コロンビア共和国を樹立して大統領となったシモン=ボリバル

大コロンビア共和国を樹立して大統領となったシモン=ボリバル

 

第一次世界大戦後、パリ講和会議(1918)

ウィルソン大統領が提唱した民族自決の元に独立した(国家承認された)ヨーロッパ諸国

WW1後、ロシア革命および敗戦国となった中央同盟の解体により空白となった東欧地域が独立の主体となった。

ただしウィルソン大統領は、ヨーロッパ列強諸国の植民地にも自決権を与えようとしたため、戦勝国イギリス、フランスが反対し、自決権はヨーロッパのみに留められた。

それぞれの国家承認は1920年になされた。これらの諸国は、ヴェルサイユ体制において独立が維持されたが、世界恐慌以後は政情は安定せず、また小国ゆえに大国の緩衝国となってしまい、WW2が勃発すると次々に侵略を受け、独立を喪失した。

 

「アフリカの年」(1960)周辺 

世界史の窓-アフリカ諸国の独立/アフリカの年/1960年

19世紀までにヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進み、植民地とされていたアフリカ各地で、第二次世界大戦後に独立運動が活発になり、1960年前後に一斉に独立を達成した。特に17カ国が独立した1960年を「アフリカの年」と呼ぶ。

【1950年代】

【1960年代】

この時独立したのはフランス植民地であったところが多く、ド=ゴール大統領がアルジェリア戦争に押されて、植民地の独立を認める方針に転換したことが大きい。

1960年10月、国際連合総会において、ガーナのエンクルマ大統領が演説、アフリカの独立への支援と、南アフリカにおけるアパルトヘイトの不当を訴え、大きな反響を呼んだ。それを受けた国連総会は、同年12月の総会で「植民地独立付与宣言」を反対票なしで可決した。そこではすべての植民地支配は人権の侵害であり、すべての人々は自己決定権を有すると宣言した。

 

ポルトガル植民地の独立(1974〜)

アフリカ植民地の中で最も独立が遅れたのは、WW2後もサラザール、さらにカエターノによる独裁政権が続いていたポルトガルのアフリカ植民地だった。

1974年に独裁政権が倒されてポルトガル民主化が進み、ようやく独立承認の動きが実現。1974年9月の西海岸のギニアビサウをかわきりに、アンゴラ東海岸モザンビークが独立を達成した。

 

 

ソビエト連邦解体(1991)

 

ユーゴスラビア解体(1991〜1992)

f:id:egawachikage:20190526190427j:plain

ヨーロッパのバルカン半島北西部を占めた連邦共和国。1918年から1990年代初めまで存在した。ユーゴスラビア〉とは〈南スラブ人の国〉を意味し,その名のとおり南スラブ諸族を主体とした多民族国家

14世紀からオスマン帝国支配下にあったが、WW1後の1918年、南スラブ系の多民族最初の統一国家セルビアクロアチアスロベニア王国が成立、1929年にユーゴスラビア王国と改称。

1945年に連邦人民共和国、1963年に社会主義連邦共和国となり独自の民族主義社会主義政策を推進。1991年から1992年にかけ、同国の解体・再編に伴い各共和国が分離・独立。

2006年に両国が分離して完全に解体。

 

ヨシップ・ブロズ・チトーの指導の下、ユーゴスラビアは冷戦下において中立政策を維持。第1回非同盟諸国首脳会議の開催国となるなど、非同盟諸国のなかで中核的な役割を果たした。


1980年代から1990年代の民族主義の伸張によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は民族間の不一致が進行し、民族間の不調和と分断、暴力を伴った異民族排斥の流れが進んだ 。その後には、ユーゴスラビア連邦は解体へと進みユーゴスラビアからの離脱や新しい国の枠組みをめぐって異民族に対する憎悪が噴出し、大規模な暴力を伴う一連のユーゴスラビア紛争へと発展した。

 

チェコスロバキア解体(1993)

1918年から1992年にかけてヨーロッパに存在した国家。 

1948年からはチェコスロバキア共産党の事実上の一党独裁制によるソ連社会主義国となり、1960年から1989年まで、国名は「チェコスロバキア社会主義共和国」だった。

1989年の「ビロード革命」により社会主義体制から脱却したチェコスロバキアは、チェコ共和国スロバキア共和国の両共和国の連邦共和国となる。しかし1992年の選挙で両共和国ともに「分離派」の政党が勝利をすると、分離のための協議がスタート。6月から協議が始まり、8月には早くも「連邦解体」の合意文署を発表。1993年1月1日に実施された分離は、一滴の流血や暴動も伴わない「平和的な分離」だった。

 

 

エリトリア独立(1993)

https://www.y-history.net/appendix/wh1402-046.html

冷戦の影響受ける

19世紀末イタリアが進出して領有、大戦後にエチオピアに併合され、1973年に分離独立運動が始まり、93年に独立した。(イタリアのムッソリーニエチオピアハイレ=セラシエ1世に支配された。)

エチオピアのハイレ=セラシエ皇帝の帝政は次第に行き詰まる。

1974年エチオピア革命

帝政を終わらせたメンギスツ政権はマルクスレーニン主義を掲げて社会主義改革を一気に進めようとし、ソ連の強い支援を受けた。

1877年、軍事独裁政権化したメンギスツは、ソ連製の高度な武器、ソ連将校団の援助も受けてエリトリア独立運動を進めるエリトリア解放戦線の壊滅に乗りだし、激しい戦闘が繰り返された。

それに対してエリトリア独立運動アメリカやアラブ諸国、それに加えて中ソ対立でソ連を批判していた中国に支援されるという代理戦争の様相を呈していった。しかし、エチオピア軍の軍事的な優位が続き、エリトリア側はEPLFとELFなどの対立などの内戦状態もあったため、主要都市をエチオピアに抑えられ、苦戦が続いた。

1991年、ソ連邦の崩壊が、この情勢を一変させた。後ろ盾を失ったメンギスツ政権は一挙に追いこまれ、エリトリア人民解放戦線はエチオピアの反政府勢力とともにエチオピアの首都アジスアベバを占領、エチオピアの軍事政権を崩壊させた。

エリトリアはただちに独立を宣言、この事実上の独立を勝ち取った1991年は、武装したエリトリア解放戦線による独立運動の最初の銃弾が放たれた1961年から30年が経過していた。
独立を記念して制定されたエリトリア国旗(右)には左に二本のオリーブの木で円をつくっており、そこには15枚ずつ、計30枚の葉が描かれている。それは、独立運動が30年かかったことによる。

 

 

パレスチナ暫定自治開始

世界史の窓-パレスチナ暫定自治協定

1993年のオスロ合意に基づきイスラエルとPLOの間で、パレスチナ自治政権樹立が合意された。基本的には両者が「二国共存」を認める画期的なものであったが、和平の実現には到達していない。

アメリカのクリントン大統領を仲介として、イスラエルラビン首相と、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の間で締結された「パレスチナの暫定自治に関する原則宣言」では
・5年間のパレスチナ暫定自治を行い、その三年目までに最終的地位に関する交渉を開始し、暫定自治の終わる5年後に、最終的地位協定を発効させる。
・最終的地位協定には、イェルサレムの帰属、パレスチナ難民の処遇、安全保障、国境確定などを含む。
…となっていたが、実際の交渉は大幅に遅れ、実現しなかった。しかし、イスラエルパレスチナという当事者同士がテーブルに着き、和平の道筋について大筋で合意したことの歴史的意義は大きい。この功績によってラビンとアラファトは94年のノーベル平和賞を受賞した。 …今に色々続く。

 

21世紀の独立国

東ティモール独立(2002)

外務省: わかる!国際情勢 Vol.36 21世紀初の独立国、東ティモールの現状と課題

ポルトガルは1974年、国内で発生した政治クーデターによる政権の崩壊で、東ティモールの植民地支配を放棄。独立に向けた機運が高まり、1975年には独立派勢力「フレテリン」(東ティモール独立革命戦線)が独立を宣言しますが、その直後にティモール島の不安定化を懸念するインドネシア東ティモールに軍事侵攻。1976年に「27番目の州」として併合を宣言しました。その後、東ティモールではインドネシア政府による社会基盤整備や学校教育などが始まりましたが、一方で、独立を望む人々による活動が途絶えることはありませんでした。しかし、時代は東西冷戦の終結過程へと突入し、小さな島の独立を巡る闘争が国際社会の注目を集めることも少なくなっていきました。

住民投票後の騒乱から21世紀初の独立国誕生へ

2002年5月20日に独立を達成。東ティモールは21世紀最初の独立国家として、新たに歩み始めました。

 

南スーダン独立(2011)

https://plaza.rakuten.co.jp/hidetaka1220/diary/201107200000/

元々イギリスとエジプトの共同で統治され、キリスト教系の多い南部とイスラム教系の多い北部が対立。1956年に「スーダン共和国」として独立したことがきっかけで、南北の対立が激化

→→2005年に内戦が和平調停で終結し、2011年住民投票→独立

 

 

 

 

※この記事は、『世界の国旗』ミニサイト と、マリーアントワネットの国旗解説@Twitter のためにまとめている歴史ノートです。

twitter.com