歴史ノート:中世ビザンツ帝国史

ビザンツ帝国東ローマ帝国)概要

6世紀のユスティニアヌス帝時代は地中海世界支配を回復したが、以降は東方のササン朝ペルシアとの抗争、北方からのスラブ人の進出などによって領土を縮小させていった。7世紀以降はイスラーム勢力の侵入に脅かされる。それでもコンスタンティノープル東西交易で繁栄し、帝国も存続。いくつかの王朝が交代する。しかし、13世紀には十字軍に征服されて首都を明け渡し、その後回復したがその支配は首都周辺に限られ衰退した。この間、東方教会はローマカトリックと対抗するギリシア正教として分離し、アラブ世界に広がる。1453年、オスマン帝国の攻撃によって首都が陥落し、ビザンツ帝国も滅亡した。

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歴史ノート:中世イタリア・スペイン・北欧史

  • カール大帝の孫たちが国を3つに分けたのが、現在の🇩🇪ドイツ、🇫🇷フランス、🇮🇹イタリアのルーツ
  • イタリアでも、カール大帝の血を引くカロリング朝はすぐに断絶してしまった
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歴史ノート:中世ドイツ史

  • カール大帝の孫たちが国を3つに分けたのが、現在の🇩🇪ドイツ、🇫🇷フランス、🇮🇹イタリアのルーツ
  • 中世西ヨーロッパのポイントは、諸侯の力が強く国王が弱い状態から、国王が強くなっていくという部分(イギリスやフランス)。しかし、国によってそれがうまくいかなかった国もある(それがドイツとイタリア)。
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歴史ノート:中世イギリス・フランス史

十字軍の派遣は失敗に終わりました。しかし、王や諸侯が貴族を率いてイスラーム勢力と戦ったことで、結果的に主君と家臣のチームワークが高まりました。王権が強化され、中世後半の国々は総じて「王国」らしくなりました。( それまでは王様の権力はあまり強くなかった ) 

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歴史ノート:十字軍が中世ヨーロッパに与えた影響

十字軍が中世ヨーロッパにもたらしたもの

十字軍の派遣は失敗に終わりましたが、代わりに商業の発展がヨーロッパ世界にもたらされました。 十字軍以前のヨーロッパ世界は、度重なる民族移動による混乱期で、それぞれ自国を守るのに必死でしたが、十字軍の派遣の頃には混乱はかなり落ち着いていました。十字軍は、ヨーロッパの国々が遠い西アジアやエジプトに軍隊を派遣できるほど安定したという証拠になりました。

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歴史ノート:十字軍の遠征

十字軍は、11世紀末~13世紀末までのキリスト教世界の膨張運動の一つ。

1095年のクレルモン宗教会議教皇ウルバヌス2世によって提唱され、1096年の第1回から、一般に1270年の第7回までとされる。一時はエルサレム王国を建てるなど聖地回復に成功したが、結局はイスラーム側の反撃によって失敗した。東方貿易の活発化、イスラーム文化の流入など、中世ヨーロッパ社会を大きく変動させる一因となった。

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歴史ノート:宗教改革①ドイツ

ルネサンス(14〜16世紀)教会を批判する目が生まれた。

大航海時代(15〜16世紀)地球は丸かった。教会が正しくないということが確認されてしまった。

  ↓ ↓ ↓

カトリック教会は中世、絶大な支持を集めていましたが、その反面、富や権力が集中して聖職売買や聖職者の堕落などの腐敗も進行していました。

こうした腐敗を批判し、新しいキリスト教を生み出そうという動きが宗教改革です。宗教改革によって生まれた新しいキリスト教の宗派は、旧来のキリスト教に抗議(プロテスト)して生まれたので「プロテスタント」と呼ばれています。

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歴史ノート:ルネサンス

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歴史ノート:世界の一体化へ、大航海時代

アジアの香辛料を求めて、ヨーロッパ諸国が大西洋へ

15世紀半ば、ヨーロッパでは食文化が多彩になり、アジアの香辛料の需要が拡大します。しかし中東ではオスマン帝国が成長していたため、陸路での、ヨーロッパからアジアへの交易ルートは途絶えていました。「陸がだめなら海から行こう」と、ヨーロッパの諸国が大西洋に乗り出して新しい交易路を開拓しようとしたことから、大航海時代がはじまります。

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歴史ノート:オスマン帝国とエジプト総督

オスマン帝国

(14~20世紀初頭まで)現在のトルコ共和国アナトリア地方(小アジア半島)に建国されたイスラム教の大帝国。アナトリアからバルカン半島、地中海にも進出し、領土を拡大。15世紀半ばにはビザンツ帝国東ローマ帝国)を滅亡させ、第10代皇帝スレイマン1世が治める16世紀に最盛期を迎える。帝国の躍進は「オスマンの衝撃」と呼ばれ、西欧キリスト教世界に大きな脅威を与えた。

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歴史ノート:19世紀ロシア史・東方問題

不凍港を求めたロシアがこだわった南下政策

17世紀末に即位したピョートル1世の時代に、ロシアはヨーロッパの強国になりました。しかし、ロシアが海外進出するためには、冬でも凍らない港が必要不可欠でした。

ロシアは不凍港を求めて南下政策をとることに…

主な標的になったのは、18世紀を境に衰退しはじめたオスマン帝国

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歴史ノート:イタリアとドイツの統一

中世以降、ドイツの諸領邦を束ねた神聖ローマ帝国

しかし、「ローマ帝国の後継者」を自認する皇帝は、イタリアへの遠征や干渉を繰り返し、ドイツ国内の統一はないがしろになっていました。

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歴史ノート:ウィーン体制

ウィーン会議とは

1814年4月に、第1次パリ平和条約が結ばれた。ウィーン会議は、フランス革命とその後のナポレオン戦争によって荒廃したヨーロッパの秩序を再建するために、1814年9月から1815年6月にかけて開かれた会議。

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歴史ノート:ロシア領土拡大、最強の女帝

エカチェリーナ2世

エカチェリーナ2世は、ドイツ貴族の娘として生まれたロシアの女帝です。プロイセンのシュテッティン(現在のポーランド領シュチェチン)

7代目ロシア皇帝の后でしたが、気弱で能力不足の夫に満足せず、クーデターを起こし自ら帝位についた女傑。歴代のロシア皇帝の中で最長在位(1762〜1796)を誇ります。

またポーランドを分割し、その一部やウクライナクリミア半島などを取り込み、ロシアが熱望する暖かい南方へ進出。最も領土を拡大するという功績を残しました。

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